山本理顕『「世界」という空間vs.「社会」という空間』

山本さんの『思想』連載第三章が送られてきた。ありがとうございます。

不思議なタイトルだなと思ったが、ハンナ・アレント『人間の条件』における二元論の発展のようである。社会とは近代そのものと言い換えられ、資本制のもとで人間も空間も脱中心化され断片化される状況である。世界とは、ここでは多義的で、社会ではないもの、すなわち古代ポリス、中世都市、彼が探究した集落などである。

さらに仕事と労働の二元論もくわしく論じられている。仕事とはやりがいのある、具体的な、自己実現としての仕事。労働とは商品として労働者がみずからを数値化し切り売りする労働。それは数量化されることで、普遍化され、資本制のシステムを支え、流通する。

全体としてはかつて近代批判をもういちどとらえなおし、より普遍化することである。それは近代建築批判そのものを組み立て直すかのようである。なぜなら近代建築そのもののも似た批判的意識のうえにたっていた。批判の構図そのものをはっきりさせねばならない。

今回は基本概念の定義づけということである。おそらくこれを土台にして、4章、5章でおおきな展開があるのであろう。

今回の設問はおそらく「世界」ということである。つまり生身の具体的な人間は、どうゆう状況、どういう連関のなかにいるか。それは人間がそこで生まれ、死ぬ世界である。

あるいは人間はどこで生まれ、どこで死ぬのか。交換可能な抽象的人間ダス・マンはどこからも生まれないし、どこにおいても死なない。交換されるだけである。だからどこかで生まれ、どこかで死ぬのが人間である。ぎゃくに人間が生まれうる、死にうるのが世界である。

そして19世紀と20世紀において、このような「世界」はどこに求められたか。それはさまざまに求められたのである。すなわち、古代に、中世に、歴史に、ときには先史に、未来に、あるいは彼岸に、そして集落に。そしてこうした探究をアンソロジーとして語ってゆくのか、あるいはさまざまな世界の上位に、世界一般、本質的世界があるのか。こうした大きな枠組みのなかで、彼は自分の建築を語るのであろう(か?)。山本さんの4章以降もおもしろくなってきた。

それらを先生からの宿題のように、ぼくは待つのであろう。そして宿題レポートのように感想を書くのであろう。このような変則的な対話は、不思議なものだが、心静かに、誠実に対峙するような気持ちになる。ぼくも10年後、山本さんの問いかけに答えうるようなものを書きたい気にもなってくる。