古市徹雄『走向自然』

古市先生より贈っていただきました。ありがとうございます。

 千葉工業大学教授を退任するにあたって編集された作品集であり、ずしりと重い。 

ぼくは古市先生には、たぶん直接会ったことはないのでは。彼が長崎市に建設した慰霊モニュメントについての批評を、十年くらいまえに、ぼくが地元紙に書いたことくらいである。とくにご返事があったわけではない(と記憶している)。しかしfacebook友だちでもある。ぼくは、研究室連絡板としてのみ、非公開グループとしてのみ使っているし、友人を増やそうというつもりもない引きこもり人間である。しかしはじめのころ、使い方もよく理解していないころ、友人になった(された?)ひとりが彼である。ちなみに同級生であった宇野求さんも、数少ないfacebook友だちである。世間の広い彼をとおして、ぼくは建築界の事情にふれているようなものである。これはこれでありがたい。

『走向自然』、つまり「自然をめざして」とは、ルソーの「自然に還れ」とル・コルビュジエ「建築をめざして」をいっしょにしたような概念である。丹下健三のもとで世界中の建築現場で修行をした彼が、各地の建築の特性を把握することでつねに原点回帰をこころがけつつ、そこにおいて本質を探究しつつ、そこから建築設計というひとつの目的にむかおうとする。つまり建築を離反して自然にむかうのではなく、建築をたずさえて自然をめざしているのである。

そういう意味では、建築に普遍的な、原点回帰、初源の小屋、高貴なる野蛮人といったいちれんの指向にもつらなる。しかし彼の場合は、ひとつの方程式に還元されるのではなく、豊かな多様性を産んでいる。

作品集の構成をみると、水、風、土などを経由して最終的には神に至るというルートが示唆されている。日本中、世界中に建てていった建築を作品集として編集するときに、さきほどの自然といった概念が軸とされるのだが、それが作るときの基盤となる思想なり概念であるのと、全体を俯瞰するときに浮上する概念であるのとは、また違っている。それは作者と読者の違いでもあり、創作と編集、主体と客体のそれでもあろう。

ル・コルビュジエの場合でも、晩年のデッサンには神秘主義的な図像や、秘教的な概念があらわれるのだが、それはひとつひとつの建築のためのエスキスというより、自分の作品世界を成立させる、形而上学的な枠組み、それを事前的にでも事後的にでもつくりあげるということであろう。

連想するのがジョゼフ・リクワートの『アダムの家』であり、初源の小屋への探究、すなわち建築における「自然へ還れ」の探究が不可避的に「宗教的なもの」への回帰となる、そういう建築の業(ごう)のようなものを感じる。それは畏怖して対面するようななにかでもある。