青井哲人『ヨコとタテの建築論』(2023)を読んだ感想

青井さんに同書をいただきました。遅くなりましたがありがとうございます。
 この書は建築論なのだが、それそのものというより、建築論はいかに成立するかという本である。いわばメタ建築論である。そういう点ではぼくの方法論に近い。
まずヨコ/タテを象徴的に、あるいは象徴論的に語っている。
 ラスコー壁画の具体的な話は本文に譲るとして、「タテ」とはようするに超越的なもの、超越論的なものをめざしてしまう現生人類の本質である。それをアナロジーとはなにかという論考をとおして語っている。愚考では類人猿から人間へと進化するプロセスでまず脳が進化したことが語られている。つまり中心と周辺なからなる構造ではなく、複数のPCがネットワークで結ばれている同時並行処理型の脳に変化したという説明である。アナロジーとは、あっちの処理とこっちの処理が同じだいや違うといった脳内対話ができる人間の脳の特質なのであろ。・・・超越とは具体的には神、王、普遍、法則・・・などの意味があるが、あらかじめ決まっているのではなく、人間はなにか超越的なものを目指す、すなわち「タテ」に運動するものだという了解である。
 さらにぼくは『言葉と建築』(1997)において「デコル論」すなわち内容(S)と形態(F)の二元論が西洋思想をつらぬいていることを書いたのだが、それを詳細にとりあげて、ひとつの軸とし、なんどもそこに回帰して論じている。青井さんは《神殿の聖ステファノ》を幻想絵画としてこの内容/形態二元論を論じているのだが、かならずしもふたつが一致すべきというのではなく、いっぽうが他方を喚起するという機能に注目し、建築が共同幻想を成立させるための契機になるといっている。つまり建築は虚構さえも生みだす力があり、この普遍的な仕組みでさまざまなことを論じている。
 そういうわけで土居が紹介したデコル論関連として、まずデコル論を提起し(38頁)、様式概念の話(176頁)、ふさわしさ概念の話(212頁)がそこから派生しているというようにぼくを引用している(ありがたい)。図式的には、この古代修辞学の概念は、近代の言語論におけることば/意味がもつ関係の恣意性ということに近い。しかしこれをより広げると、二つの水準がもつなんらかの関連性ということである。既存の二元論の水準をあげて、より一般化する、そのようなことを青井さんはこころみている。
 ということで「タテ/ヨコ」とはそれそのものは思想でも哲学でもないが、きわめて純度の高い抽象図式として意図的に使われているといえよう。つまりタテ/ヨコ図式の両項にはいろいろなものが代入できる。超越/凡庸、図/地、記念碑/市井の建物などである。無限の代入可能性ということが際立っている。青井理論の核心であろう。メタ建築論ともいえよう。
 さて各論も面白い。
 もちろん好きになれないものもある。地球上の都市組織は4種類に分類される(97頁)、構法も4種類に分類される(118頁)などがそうで、そこまで地球征服をしたくなる動機をぼくは共有していないし、ミニマムな類型化で「世界がかなりすっきり見渡せるようになります」(121頁)などといわれても、人は無限種類の幻想をいだくほうが楽しいのだがと思ってしまう。連想するのがエマニュエル・トッドである。彼は少数の家族類型が多様に見える人類と世界を決定しているのだという。トッド理論をもってすれば世界はすっきり見えそうだが、ぼくは最後まで信じてみようとは思わない。
 ただぼくの建築理解とつながるところもある。ティシュ/オルガン/コルプスなどはうまい三段論法だと思うし、もっと普遍化できると思う。有機的、生概念、深層/表層(171頁)、類型論/組織論(175頁)もいい着眼点である。
 すこしちょっかいを出したくなるのは透明性(226頁)の話である。コーロン・ロウの話の展開でもある。しかしこの理論は、ロウも気がついていないかもしれないが、見えると信じるから透明だと事後的に認めるのだが、透明は事前にあったとするのは錯誤ではないか、問題は人間はこの錯誤に依拠するシステムなのではないか、と思ったりする。個人的には人間の脳は見えないけれどあるはずだという「信じる」能力が、事後的に透明という概念を生むのだと思う。透明の概念があるから見えないものが見えると思うのではなく、見えないものでも見える(見えると思える)から透明性という概念が要求されるのであろう。いやどちらなのだろう。もっと深めると、見ることを眼球と脳の共同作業とすべきなのである。つまり眼球が捕捉しないものも脳が認識する、という総合的な視覚もあるのではないか、ということは「眼球なき視覚」が理論的にはありえるということである。個人的にはこんなことくらい先学がいそうだが、論文を探すのがめんどくさいので放置してある。
 いちばん面白くて読んでわくわくするのが「表象の意図的な除去」とでもいえる現象である。明治神宮にいちばん凡庸な流造りを選んだこと(189頁)、イギリスにおける2分間黙禱(197頁)、モーセが表象を禁じたこと(209頁)、白い近代建築(211頁)などである。ぼくならオベリスク論を追加したい。つまり建築表現をめぐって諸イデオロギーが対立しているとき、ある意味を帯びた具体的なものを選ぶことはもはや不可能であり、意味をすべてなくしてタブララサそのものをもたらすしかなくなる。近代という多様な時代はそういう選択がくりかえされたのである。青井さんがこれをさらに深めれば、近代を理解するための不可欠の項目とするであろう。さらにこの議論は、内容/形態の二元論を通奏低音とする本書のなかで矛盾するものではない。まさに意味(内容)をゼロにすることもまた、デコル論の展開のなかに収まる。青井さんはそうすることで、自身の論考を完璧なものにし、デコル論の普遍性をさらに延伸しているのである。
 日本の研究史的にいえば、青井さんはいわゆるグローバル化が現実になりはじめたころに研究をスタートさせた世代だから、歴史なるものも認めてはいるが、それを情報の海として認識して、そこからなにが立ち上がるかを思索したのであろう。だから特定の建築家、流派、様式、思想などを出発点とはしないのである。ただ海もトビウオ(279頁)もそれこそアナロジーで召喚された表象にすぎないのだが。
 さて最後にこの書の印象だが、建築論としながらも、ぼくには「建築家になり世界とかかわるとはどういうことか?」を述べていると感じられる。つまり建築とはなんぞやに具体的な指標をもって答えるのではない。建築家とは誰かという問いに古代ギリシアの理想的建築家像や近代の職能運動をもって答えるのではない。具体的なものはとくにない。しかし「座」「態」(中動態)などはある。建築家はつくり、つくられる。基本的には再帰的なものだ(ということで『空想の建築史』の作者としてはそのとおりという感想)。そして「虚構の生産」とはいうのも、ぼくはある意味で反対しない。ただ文字どおりの虚構なのではないであろう。そのつど超越して超越論的につくりつくられる建築家自身がそもそも虚構である。だから生産されるものが虚構であってもしかたない、ということであろう。「座」といえば、王を論じるのではない、王座を論じるのだ、というようなことであろうか。
 「代入可能性」をくりかえせば、とくに具体的ではない変数x, y, z・・・により方程式をつくり、それを理論とする。変数x, y, z・・・にそのときどきのものを代入していけば現実に着地できる。そういう、古代風にいえば論理学、現代的にはメタ理論を構築しているという点では最近の建築論のなかでも出色のものであろう。 
 そういう意味で「世界」の世界性を論じている3種類の社会性はもっとくわしく説明してもらいたいが、伸びしろでもあるのだろう。それでも終章にあるからには青井建築論のあらたな出発点ではあろう。さらにいえば虚構というからにはAIやメタバースによる未来をすでにさきどりしているようにも感じられる。

 

ユハニ・パッラスマー『建築と触覚---空間と五感をめぐる哲学』草思社、2022

標記文献を草思社様からいただいた。ありがとうございます。
 スティーヴン・ホールによる前書きによると、a+u誌の特集「知覚の問題---建築の現象学」(1994年7月)などがたたき台になっているらしい。もちろんこの特集は知っている。本書にしばしば引用されるバシュラールメルロ=ポンティはそうとうはやく日本にも紹介されていたので、すでに広まっていた建築の現象学的解釈を継承するものか、21世紀的な視点もあるのか、が読者としての興味であった。
 本論では、情報化、コンピューター活用によりますます視覚優位の建築になってしまう危険性が憂慮されている(p.20)。このあたりが現代的な意味なのであろう。 
 人間の知覚を五つに分類し、人間はそれらを媒介として世界をどう知覚するか、諸感覚どおしの関係はいかにあるか、は西洋哲学をつらぬくテーマである。古代ギリシアはもちろん、とりわけ近代においてこの問題は注目された。それが実存主義現象学にもとづく考察を生んできた。
 私見によればとりわけ17世紀が重要である。この世紀において視覚を上位にすえる考えが優性になった。反射的に、その優位性を批判することもなされはじめた。ちょうどデカルト哲学において主観と客観がきびしく峻別されたことと即応的に、この二元論を乗り越えようということがなされたのと似ている。 
 著者ユハニ・パッラスマーは建築家であり、かつ建築論の論考を残している。とりわけ彼は哲学と建築をどう接続するかを考える。アアルトなどのフィンランドの伝統にのりながらも、西洋哲学における知覚の問題をよく把握している。バシュラールベルグソンメルロ=ポンティらの理論を論拠としているのはやや常套的かもしれない。
 しかしそれが建築的実践のなかで具体的にどう現れ、建築家としてどう処理してきたかのを具体的に述べている。彼は「建築とは私たちと世界とを仲介する術であり」(p.126)という明快な指針をいだく。そのために多感覚の建築(p.123)を仮定する。アアルト建築の触覚性のみならず、建築は人間の実存、記憶の身体化、周囲に溶け込むことにかかわる。そのために手で建築に触れ、その素材感や暖かみを感じ取り、ときには直接口で味わうことまでするという、建築と五感との関係をくわしく具体的に描いてゆく。建築は限定された感覚器官のみならず、身体全体で感じられる。手が暖炉の暖かさを、足が地面や床の質を感じる。建築を体験しあるいは設計するなかで、これらの視点をあらかじめ知っておけば、きわめて深い建築体験となるであろうことは推薦できる。
 本書は建築を論考するためのよき手引き書でもあろう。本書を読めば、建築を体験し五感で感じることの諸例がわかり、それにより建築見学の視点も得ることができよう。哲学者の名前も示されていることから、建築体験から逆引きして哲学者を発見して、その哲学を読んでゆくこともできるであろう。建築を出発点として、そこから哲学に上昇して古典を読んでゆく。哲学から下降して建築を論じるのではない。そういう新たな読みかたもできるであろう。
 注文としては、フランス美術史の碩学フォシヨンが「手で考える」により、触覚の受動的な感覚のみならず、能動的な思考をいっていたことや、16世紀リヨンの建築家デザルグ(p,45)はもっと重要なのだが、といった感想をいだく。
 ところが現代は視覚中心とはいえ、そのまさに視覚中心的な世界観は、古代ギリシアをベースとしながらも、17世紀から顕著になり、20世紀はますますそうなるとはいえ、それにたいする批判もまた近代思想の中核をなす。すなわち現代の特徴は、視覚中心的な傾向というより、視覚中心と反視覚中心とのあいだの葛藤である、ということである。現代建築においては視覚的な方法論も重要だが、素材という触覚的なものが必須なだけに、このような議論はまさに建築においてなにがエッセンスかを再確認する意義があろう。
 情報化に批判的であってもよいが、なにをもって情報化なのかも示すべきであろう。私見では、情報化とは微小化であり数値化である。それは五感を横断する。だから情報化により五感が統合され、中村雄二郎がかつて『共通感覚論』でいおうとしたことにもちかづくかもしれない。ただそういう統合は平板なものに終わるかもしれない。
 手前味噌だが『知覚と建築』ではその視覚中心が17世紀に台頭した例としてクロード・ペローについて述べたあと、その人間の基本的な認識能力である視覚をいかにモデル化できるかに挑戦した。そこでラカンの鏡像関係の概念をさらに拡張して、「合わせ鏡」の図式を考えてみた。この図式だと、無限の反射関係により無限な空間が現象としてたちあらわれることや、主観と客観が相互作用を及ぼしあう関係が空間的に描けること、現代を特徴付ける再帰性も描けることなどを指摘した。さらに『空想の建築史』では眼球なき視覚という概念を提案してみた。これらとて先学にいろいろ負っているのだが。視覚批判ももっともだが、なにをもって視覚とするかという定義にまでさかのぼることを議論してもいい。
 ところで人間の臓器と知覚はそれほど一対一対応ではない。音を感じるのは耳だけではない。皮膚も筋肉も音を感じる。しかも感じる周波帯もちがう。原著タイトル『皮膚の目 The Eyes of the Skin』は、臓器と五感の相互乗り入れを示唆している。だから「建築と触覚」はそのとおりだとしても、人間における五感の分類と、器官(臓器)の分類はまた違うのだという本書の主張にももうすこし配慮してもよさそうである。こなれた読みやすい訳文であり、かつコンサイスな本なので、くわしい訳者解説があってもよかったのかもしれない。

豊川斎赫『国立代々木競技場と丹下健三』TOTO建築叢書、2021

豊川さんからご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。
 丹下健三研究の第一人者豊川さんが書いているのだから、安定感抜群、内容充実、川口研所蔵の丹下資料等の新鮮な素材の提供など、コンサイスな本でありながら多角的で読み応えがある。ただ「あとがき」にあるように世界遺産登録にむけての推薦書をという出版のいきさつもあって(英語版もあるし)、やや報告書的な雰囲気も漂っている。それでもそれを補ってあまりある素晴らしい本でもある。そんな感想を以下、述べてみる。
 目次としては、
まとめ
第1章 朝日新聞紙面から読み解く代々木競技場
第2章 丹下健三による建築作品の5つの特徴
第3章 都市デザインから読み解く代々木競技場
第4章 建築デザインから読み解く代々木競技場
第5章 運営方針と保全改修から読み解く代々木競技場
第6章 まとめ
 である。実質的には5部構成であるが、ぼくなりに看板を書き換えるとすると、
第1章 興行史・イヴェント史(そこでなされたスポーツ大会、コンサート、サーカス、バレエ、演劇、ファッションショー、政治集会等催事、・・・pp.38-39に一覧表)
第2章 丹下の方法論5要点
第3章 都市史・地域史的な位置づけ
第4章 建物の基本設計・構造設計とりわけ建設工事
第5章 施設としての管理運営史、保全改修史
 ということになる。ぼくなりにそういう意味づけで読んでいたわけである。それぞれ感想をいうと、
 第1章はこれだ!と膝を打つほど面白かった。
 第2章は、建築系としては既知のことなので一般市民むけかなという印象であったのだが、関連する論考は多いので、もうすこし肉付けしてもよかったのかなという感じ。
 第3章は、ひとつの建築プロジェクトを都市史的な文脈からみるという叙述としては教科書的によく整理されているが、それでも帝都における天皇の御幸、都市の聖地に関する最近の論考、戦争体制・占領体制からの継承/非継承、などともっとクロスさせると興味倍増であったろう。個人的には、競技場とNHKとがひとつの地域を分け合ったことに、スポーツとメディアの相互依存にかんする戦後体制がうかがえるというものであろう。
 なお明治神宮と競技場とが軸線を共有しているという話だが、50㎝ほどずれているがしょうがない誤差として処理されたという話を、ウルテックOBから聞いたことがある。どうだろう。
 第4章もこれだ!レベルに面白かった。とくに建設中の写真などはポスターにして部屋に飾っておきたいほどである。とくに図4-27(ケーブル束ねバンド), 28(メーンケーブル), 37(光が差し込む)など。
 第5章も、建物の使われ方にかんするライフヒストリーとして今後の建築史叙述には重要なものとなるであろう。
 ところが大いに可能性を感じる側面は、むしろより望まれる(現状においてそうなっていない)でもあるから、批判的になるかもしれないが、やはり時間軸のとおり書いた方がいいのではないだろうか。
 つまり「第2章+第3章 → 第4章 → 第1章+第5章」すなわち「文脈・発案→設計・建設→活用・維持管理」という時間順である。理念が萌芽的なものから、計画として立案され、それにより空間ができ、そのなかでの人びとの活動と体験の60年間が展開される。すると私たちはなにを継承しているかがよりはっきりできるであろう。競技場をもたらした理念に、競技場がもたらした体験を、シームレスに接続する、あるいはすくなくとも連続/非連続を論じることはじゅうぶん可能であろう。そうすると1930年代の丹下黎明期から、今の2021年までを切れ目なくひとつの現代史として描ける。
 古くさい表現だが「生きられた競技場」である。これも建築史をなす一要素に昇格させるのである。
 新資料の紹介もあって、つぎの2点を感じた。
(1)写真で紹介さている工事中のようすは、これじたいがひとつのイヴェントであり、完成後の興行とともに高揚をもたらしている。丹下のいう象徴性はそこですでにはじまっていた。
(2)さまざまな興行がもたらす興奮、丹下のいう象徴性であり、観衆がひとつのことを共有し高揚し(デュルケム的にいえば)沸騰するという一体感を得るのだから、ほとんど宗教的次元の心理的できごとである。そこでたとえば60年の施設使用、イヴェントの種類により、沸騰のありようが変化しているのか多様なのかまで踏み込めたら、それが日本国民の精神史となるであろう。
 通説へのイヤミをいうと、丹下健三は国家的な建築家といわれるが、この興行史からはむしろ結果論的とはいえ大衆的、市民的ではないか。国家/資本/市民は排他的3者と考えられていることが多いが、それらは同一物の3側面なのである。
 また管理運営というのは、施設のみならず、活用と施設の総体にかかわるので、イヴェントとの関係は深いはずである。そういう意味でも1章と5章は別々なのだろうかという素朴な疑問である。ひとつのコインの裏表ではないだろうか。
 もちろん豊川さんにおおいに期待するのでつい辛口になる。しかしこの第一人者は、そのうちかならずや、代々木競技場にまつわる1世紀の、より多面的で融合的な大ドラマを書いてくれるであろう。
 最後にご時世的には、びわこマラソンや福岡マラソンがあいついで中止になったりするのはスポーツを支えてきた新聞テレビの系列機構がWEB時代になり滅亡しつつあるからである。大メディア系列とスポーツの二人三脚は終わるであろう。競技場を生んだ構造はなくなるかもしれない。保全のためにはコンテンツ再考が求められるかもしれない。しかしそうなっても競技場は、その空間の豊かさにより、時代の変化を超越するのあろう。

松井茂『虚像培養芸術論---アートとテレビジョンの想像力』フィルムアート社, 2021

 松井茂さんからフィルムアート社経由でご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。
 テレビが登場した1953年以降の、とりわけ1960年代以降のメディア(テレビ)、アート、建築を横断的に論じている。
 具体的には第一部「虚像培養芸術論」はどちらかというとアートを主軸とし、東野芳明横尾忠則、高松二郎らを論じていれる。第二部「アーティスト・アーキテクトの時代」はおもに建築を論じており、磯崎新、お祭り広場、コンピューター・エイディド・シティなどを俎上にあげている。拙論もすこし引用されている。第三部メディア(テレビ)論が中心であり、「アートとテレビジョンの想像力」では雑誌『現代誌』、テレビ番組《あなたは・・・》、今野勉のテレビ論、などを分析している。
 第一部・第二部のやや謎かけのように思えた議論は、第三部における概念規定により解題される、というような印象である。マクルーハンの「メディアはメッセージ」(メディアが伝える内容よりもメディアそのものがメッセージの意)を、「『何を』ではなく『いかに』」(p.251)といいかえつつ展開していくくだり、テレビのハプニング性、免疫/公共性、免疫/共同体、テレビの思想/思想としてのテレビなどである。第八章「マスメディア空間における芸術表現と情報流通」は、清水幾太郞、南博らによる創生期のテレビ論などがまとめられており素人には勉強になる。アメリ占領政策の延長としての日本のテレビ機構という視点もそうであろう。
 さてテレビ登場のすこしあとに生まれたぼくとしては、人生=テレビ時代のようなものだから、重要なテーマであるはずである。個人的なテレビ体験としては、60年代のオリンピック、安田講堂攻防、羽田デモ、佐世保デモ、70年代初頭の三島事件あさま山荘事件などは、編集せず実況中継されたので生々しかった。ぼくのテレビ体験は、自宅の居間と大事件の現場が直結されることであった。ところがよくできたハリウッド映画みたいといわれた湾岸戦争のはるか以前から、テレビは疑って見るものというのが常識となっていた。マスメディア全般、フェイクは最近の言葉であるにしても、偏向、編集、切り取り、演出などが施されるものであった。さらにインターネットにより古典的メディア時代も終わりつつあるという潮目でもある。
 ところがそういう素朴リアル/フェイク論よりも高次元なところで、著者はテレビ番組《遠くへ行きたい》(pp.262)を、演出と編集の、故意による欠如あるいは失敗により奇妙なリアリズムが生まれる事例として紹介している。つまり故意に「何を」はなりたたない状況にして、「いかに」を紹介しているのである。テレビはむしろ「いかに」伝えているかを露呈することで強いリアリティを生むのである。
 さて建築はどうだろう。磯崎新の見えない都市、プロセス論、シンボルの布置としての都市、色彩建築、「情報空間」、お祭り広場、コンピューター・エイディド・シティが、メディア(テレビ)のありようについての理解のうえにたっていることはそのとおりだ。ネオ・ダダのアーティストたちなどと交流があったことも背景の説明ではある。
 それももっともだが、磯崎新はたんにメディア・コンシャスなのではなく、この建築家はまさにメディア的な構造をもっていたことを、著者は、全体として指摘しているのだと思う。まさに「『何を』ではなく『いかに』」である。つまり『何を』的な志向性は、目的論的、イデオロギー的、個別案件的なものとなろう。磯崎はときどき「テロス」(目的、完成)の不在をいうのはそういうことである。テロスの反対が「プロセス」であり、事態はアルゴリズムの自己運動として進展する(建築家はそれを「切断」する)という発想である。これが著者のいう「いかに」に親和的だと思えるのである。そこから本書の表現をもじれば、磯崎が表明してきたのは「建築の思想」ではなく「思想としての建築」(八束はじめ的な意味とはすこし違う?)なのであろう。
 やや控えめに「日常としての共同体」にとってテレビは「ある種の免疫」だと締めくくられている。もともと日常の構築である建築は、それと架橋できるのだろうか。磯崎の例からすれば「いかに」の論理をより発展させることであり、そうであればぼくも興味がわく。

日埜直彦『日本近現代建築の歴史』講談社2021

日埜さんからご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。
 たいへんな力作であり大作である。刺激的でもある。読みつつさまざまなことを連想し、とりとめもなくなってしまう。
 私事で恐縮だが、助手であったころ、教授に生意気なことをいってしまった。藤森照信が『日本の近代建築』(1992)を書く直前であった。「日本近代には現代をも含めた通史が書かれません。それができるのは先生くらいだと思います。先生はなぜ通史を書かないのですか?」苦笑され無視された。恨んだわけではないが、そののち日本建築学会の「建築雑誌」の編集を任されたとき、「通史はなぜ書かれなかったか?」をテーマとする特集を組んだ。有力建築史家数名に寄稿してもらうという程度のものであったので、事前に問題意識を高めて共有しておくこともせず、低調であった。そんなていたらくだから著者は参考資料にもあげていないのだろう(辻泰岳さんは言及しているが)。
 ぼくもいちおう建築史プロパーなのだが、若き日の愚直な質問からなんと30年もたった今、考えをあらためたのだろうか。そうでもない。ギーディオンにせよペヴスナーにせよ、本書で俎上にのっている稲垣、桐敷、村松らの通史は、歴史叙述としての完成度は高いが、やはり当事者のイデオロギーや問題意識に傾斜しすぎたものと考えていた。ぼくだけでなく多くの建築史家はそう考えていたふしがある。だから定評のある建築史叙述を脱構築したり、その外側にでることを目標としていた。すくなくともここ30年間、建築史プロパーはそのようなことを指向していた。
 著者の本書は、力作だが、彼自身が1970年代以前的な通史を、批判しているようで、じつはそのフォーマットにのっとり、継承するものである。しかも巧妙なことに1970年代で終わってしまう上の世代の限界をのりこえるために、70年代以降をそれ以前の反転とするという戦略をとっている。反転また継承というものである。全体としては、まさに建築史プロパーがいちばんやりたくなかったことを堂々とやっている。これは昔の作文から引用すればまさに「金的の狙いうち」ではないか。などと意地悪なこともいってみたくなる。
 ただ著者の立論も一理ある。桐敷は穏やかであった印象だが、稲垣や村松ははっきりと近代化批判をベースとして通史を書いたのだし、さらにその問題意識と関連して、建築遺産や町並みの保存に貢献したのだから、その成果をもっていちおうの完結とできたのである(まことに偉大である)。そうした萌芽ができたのはまさに1970年代であった。先学たちは歴史を書くと同時に、歴史を作っていた当事者であったのだ。そういう彼らにはそこで一段落とする権利があるようにも思える。
 さて建築雑誌編集のときにぼくが「なぜ日本近代の通史が書かれないか?」を考えたのは、2000年を記念してフランスではやはりフランス建築史の大作が、それこそ全学界的にという感じで出版されるからである。思うにフランスではまずアーカイブ学的に基本的な通史を書くということがイデオロギー自由的に確立されいるので、一番俯瞰力のある学者がまとめる、という感じである。反射的に考えて、すると、日本では通史を書くということは大きなイデオロギー的胆力が求められるということであろう。
 立場が逆転し、建築史プロパーはむしろ歴史を脱構築したいのだから、むしろプロパーでない立場から通史が書かれるのである。それも一理。そう考えると、ぼくは自分がやりそうにないことを人にお願いする理不尽なやからなのであろう。
 さて読書感想文としては、力作・大作ではあるが、理論構築に先立ってあるべき概念の定義がよくできていないという印象である。まず「様式主義」(p.110)なる主義はない。頻繁に登場する「ナショナル・ロマンティシズム」は、特定の時代の北欧・東欧についていわれる言葉であり、日本にまで適用するのはいくらなんでもどうだろう。さらにいえば最重要概念である「国家」についてはまったく曖昧だし、資本、公共性、市民など重要語句もそうである。それでも本書は熱心に読まれて好評を得るであろう。なぜなら反近代、反国家、反体制を叫んでいた世代がまだ健在であり、彼らの共感を得ることは最初から保証されているような気がする。そういう意味でも隔世遺伝的に、敏感なところをよく把握しているのだ。と同時に、かつての反近代化論にもなにが不足していたか、本書からむしろ推測できるような内容にもなっている。
 それと関連して、1970年代の意義についても感想がある。なぜそこが転換点なのかの説明は質料ともに十分ではあるとはいえ、不可欠なものが欠けているように思える。たとえば消費社会の成立、それをもたらしたメカニズムなどもそうだ。しかし象徴的にせよきわめて重要なのは1968年の都市政策大綱である。なぜこれが言及されないのだろう。これは田中角栄日本列島改造論の骨格になり、1980年代の中曽根民活、1990年代の日米構造協議、さらには旧国鉄跡地の再開発プロジェクトを招いたおおきな方向転換であった。それは政府が、都市を市場や資本の自己運動にゆだねるという方向性である。すなわちつねに都市や経済を指導してきた国家は、すでに資本も十分そだったとして、背景に退いたのである。国家はみずからすこし後退したのであって、それもまた国家の計算と戦略なのであり、自然な時代の変化というものではないし、ましてや市民運動の結果でもない。本書では1970年代に建築家は「都市から撤退」したと書かれているが、そもそも国家がすすんで都市から「撤退」していた。こうして建築家は、都市=市場=「公共性の欠如」となった場所に荷担したくないと思ったのではないか。なるほどここでも建築家は国家に依存していたのである。
 著者のいう国家は、全知全能の神か悪魔のような存在に聞こえる。しかし国家とはひとつの機構であるにすぎないし、左派でも右派でもその政権をとることができる。
 辻泰岳さんの本を読んで思い出したのだが、国家の関係論的定義としては、柄谷行人のネーション/ステート/キャピタルの三位一体の構図は参考になる。建築にあてはめれば、ステートはエリート建築家育成、都市計画法、近代化政策などをふくみ、ネーションは日本的なもの、縄文弥生などを含み、キャピタルは投機の場と化した日本都市などとわりと明快におさまる。しかし著者の「国家」はどうもこの3者を区別しないようで、そういう主義主張でもあればしかたないが、読んでいて迷子になる。
 資本の発展にひきずられて近代国家は形成されたのだし、ネーション的(国民的文化的)一体感がなければ、ステーツの構造は生きないし、単独では存在できない3者は、力関係のなかで鼎立し、あるバランスを保つ。そして明治維新から70年間はなるほど国家が突出していたようだが、基本的な構図としては、国家はむしろ適正な位置を求めてみずから突出したり後退したりするものだ。近現代においては、世界恐慌、大災害、戦争などの危機的状況において国家は肥大化するし(大きな政府)、経済が順調で安定した時代には縮小する(ちいさな政府)。三部構成のひとつをになう国家が、その状況におうじて、膨張したり縮小するだけである。それを国家の時代/ポスト国家などとするのは、人間の終焉のような、修辞にすぎないことを信じ込んでしまうような弊害がありはしないか。
 個人的には1970年代は、おおきな変革期ではあるが、反転ではないと考える。自由職業人としての近代的な建築家は、むしろ資本主義の形成のなかの一部である。国家は、イギリスやフランスなら、それを追認し支援する。日本では指導する。国家や経済の成熟度におうじて対応は調整される。民間資本が未熟なら、国家が建築家に仕事をあたえる。そのとき国家は、むしろ資本の代理なのではないか。
 このことは結論とも関連している。「公共性」という価値が重要なことはぼくもまったく同意である。また社会学のベーシックな認識では、1970年代は公害訴訟などをかわきりに、やっと日本社会でも「市民」が形成されはじめた時期なのだ。その点でも著者の見立てはただしい。
 しかし2021年3月現在、グローバル化といわれた、資本の自由な運動と調整機能によりすべてうまくいくという時代がおわりつつある。疫病の件もあれば、これからは国際紛争が激化しそうな悪い予想もある。そうするとふたたび国家が前景化するかもしれない。すると著者の期待ははずれることになる。ポスト国家でハッピーとする著者の希望はすこしあやうくなっている。
しかし全体としてみれば、国家論でこれだけの骨格をつくってしまう彼は、むしろ隠れ国家派なのかもしれない。国家批判を継承することは、それだけ国家依存を継承することである。そう考えれば、再来するかもしれない国家の時代にみごとにシンクロした好書にもなるであろう。

 

辻泰岳『純色の戦後----芸術運動と展示空間の歴史』2021

 水声社よりご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。
 最近、西洋では展覧会そのものをテーマとする文献が散見されるにようになったが、本書はそのテーマを日本の文脈で展開するものである。たいへん斬新であり、多種多様な資料を横断的に読み、ときにはオーラルヒストリーも展開する、多様で、具体的で、わくわく感に満ちた、刺激的なものである。著者自身の関心がしだいに多様化し、展開し、建設的に拡散している雰囲気が感じられる。そういう臨場感があるので読みごたえがある。
 たほうで、研究の枠組みや、諸概念の整理整頓においてはまだまだ望まれることが多い。建築展というテーマはぼく自身も考えてみたかった重要なものなので、けっして批判ではなく、著者と併走するように、私見も述べてみたい。
 拙ブログは内容紹介を丁寧にするほどのものではないが、研究対象としては、Japanese Household Objects(1951)、国立近代美術館の成立(1952)、メキシコ美術展(1955)、二〇世紀のデザイン(1957)、Visionary Architecture(1960)、空間から環境へ(1966)、モントリオール万国博覧会(1967)、大阪万博(1970)などが取り上げられている。それらは伝統、デザイン、環境という3つの大概念の相のもとに分析され、さらに「国家」的論理の浸透、世界とりわけアメリカとの文化的関係性、「芸術の総合」という理念、などの観点から考察したときの位置づけが指摘される。それらは敗戦から1970年代における消費社会の成立という、きわめて特殊だがしかし現在を決定づけた重要な時期の、それこそ歴史的意義を明らかにしようとしているように、思える。
 しかし読了後の感想としては、やはり枠組みが不明瞭ではないかと思える。
 それをいうためにぼく自身が考えていることを述べてみよう。展覧会とはすくなくとも近代においては、ある観点のもとに集められた作品やその表象が、一時的だが具体的な場をつくり、それを不特定多数の観衆が自由に受け取り、感想をいだく場である(著者はそれを「展示空間」と呼ぶのだろうがまだまだ説明不足である)。そこには企画者、立案者、キュレーター、専門家、建築家、観衆といった異なる人びとが、政治、外交、経済、文化などさまざまな思惑と利害を投影しつつ参画する。そう考えてみれば展覧会では、さまざまなベクトルがブラウン運動をへながら最終的にはひとつの展示という合力として編集され、そしてそれへの反応はふたたび受け止め方のベクトルの拡散となって現象するのである。そう考えれば、確かに展覧会は空間なのだが、その空間のなかでなにが発生しているかを考えれば、むしろそれは「交差点」ではないか。まさに空間的表象としては交差点ではなかろうか。
 そうした展覧会特有の場の構図から、固有の困難があると考えられる。それは「展覧会というテーマ」と「展覧会で論じられたテーマ」の区別である。本書ではそれが曖昧である。たとえば国家、諸芸術の総合、デザイン、環境・・・などは重要なテーマである。しかし20世紀日本におけるデザインや環境の概念の形成と発展を考えようとおもれば、展覧会はいろいろな素材のなかの一要素にすぎない。たほう「展覧会とはなんぞや」を考えれば、展覧会ではあれもこれもいろいろ話題になったにすぎず、それら要素テーマの総和が展覧会になるとも思えない。いいかえれば「論争の場」を論じているのか、「論争」を論じているのか、どちらだろう?あるいは「展覧会そのもの」と「展覧会において論じられたこと」はとうぜん重なるとはいえ、位相のちがう、別のレイヤーにおいて考えねばならないのではないか?そして国家、芸術の総合、環境、デザイン・・・を考察するなかでは、そうした区別がなされていないように感じられる。
 笑い話だが、ぼく自身は、まさに一九六〇年代的思潮のなかで検討された芸術の総合、環境、デザインの概念を、アカデミアや文部省の官僚たちが活用して設置した九州芸術工科大学の環境設計学科というところで教鞭をとったことがあるので、その意味も限界も骨身にしみているのであるし、まあ苦労させられたものであった(あくまで笑ってほしい)。
 さらに、本書の企画枠組みを超えることまでいうと、私見によれば、著者のいう「展示空間」とは、ハーバーマス的な意味での「公共圏」ではないかと思える。すなわち制度空間でもなく私的空間でもないが、両者に関連し、両者を接続しうる第三の空間のことである。建築展でいえば、そこには一般市民とまでいわなくとも、建築界の人びとが自由にやってきて、自分が関与しているのでもない建築プロジェクトや建築提案について知り、感想をいだくことができる。そこには狭い当事者をこえた主題の共有がなされる。それがある種の公共性を生むのである。
 こうした公共圏としての展示空間がいつできたかというと、これも私見によれば、19世紀中盤の西洋における官展(サロン)である。本書では戦後の30年間に集中しているのは、やはり、前述の展覧会というテーマ/展覧会で論じられたテーマの区別があいまいという感想をぼくにもたらすのである。もちろん日本建築に与えたインパクトということで重要な時期であったことは認める。ただ、建築展の歴史全体にかんしてまとまったイメージをもっていれば、時代設定もまたより明快になるのではないかと思う。
 さらにいえば、国家の文化政策に集約されかねないヨーロッパ的展覧会のありかたを、より自由にオープンにしたのがアメリカのMoMAなどである。そこでは強力な財力と、それがもたらすキュレーションシステムにより、20世紀の建築トレンドが発信されたのである。建築においても20世紀はアメリカの世紀であった。その(固有性ではなく)世界性としてのアメリカ的なものをより対象化することを最近の若手もじゅうぶん気づいているようだ。もちろん本書の多くの場所でも国家、国際、世界といったことが考察されている。しかし漠然とそういうのではなく、むしろ世界の構造あるいは構図というところまで踏み込んではどうだろう。世界のモードは、NY、パリ、ミラノが支配しているように、世界の建築にもそういう構図があるであろう。それを先進国/後進国、西洋/非西洋というようなベタな構図にいつまでもしがみつくのではなく、より対象をクリアに見るべきであろう。本書は、具体的な人の動きまで注視しているのだから、それをこれから考察してゆく基盤をじつはつくっているのである。そう考えれば日本人建築関係者がアメリカで運動したことも、たんに二国間関係ではなく世界的、国際的な広がりがあったといえるかもしれない。そうすれば磯崎新がこの時期のことを、戦勝国が敗戦国から戦利品を取り上げるようなものという話の、また再解釈の余地があろうというものである。
 余談だが、著者が「国家」を気にしていることについて、私見を述べる。行間からは、国家は統制するものということが前提とされるような印象だ。しかし、そうだろうか。近代資本主義の形成についての歴史学的研究、あるいは柄谷行人のネーション/ステーツ/キャピタル(資本)の三位一体論にも感じられるように、かならずしも全能の国家があらゆることを統制したとは限らない。国家が資本を統制した一面もあれば、ぎゃくに資本が国家を先導した側面もある。だから国家はときに芸術のパトロンであったが、美学が国家を先導したという側面もある。
 さらにいえば建築や芸術は、同業者組合的なネットワークにより、そもそも国家を超えて交流し流動するものである。それが建築の可能性というものなのだろうし、このような事情は偉大なる先人たちもじゅうぶん体験したはずである。
 展覧会とは、そうした展示品と展覧会場という具体的なものが、一時的であるからこそ、制度や縛りを超越して建築ビジョンの共有と発展を生む。展覧会に着目する著者の視点は、そうした近現代建築に固有で不可欠のある側面を浮上させている。そこが可能性である。
 さらにえばこれまでの建築史叙述が超越的な時代精神のようなものの存在を大前提とするものであったのにたいし、展覧会に着目する著者の枠組みは、個々人の具体的な挙動や活動や交流の重要性を強調するものとなろう。新しい、あるいは19-20世紀にふさわしい建築史叙述の可能性である。
 さて気がつくと文句ばっかり書いてしまったかもしれない。しかしぼくにはドレックスラーや浜口たちの交流など、具体的な人の動きについての叙述はたいへん面白かった。浜口が展覧会を企画するにあたってアメリカで考えを変えていったという記載はとくにそうであった。それは展覧会のある本質をついている。展覧会とは諸ベクトルがなんとか合流しようという、具体的で、個別的な、一回きりの,みずみずしい場なのである。だから個人レベルではベクトルの変容がおこり、それが世界や国際という普遍的なレベルにシームレスにつながっている。そうした記載はわくわくする。ぼくが交差点とするものを著者が展示空間とすることにはこだわらない。著者は新しいタイプの建築叙述を開拓しつつあるようだ。著者すなわち辻泰岳さんとはなんどか会ったことがあり、長く話し込んだこともあったし、話がはずむ相手である。いろいろ議論を広め深めてほしいものである。

市川紘司『天安門広場』2020の感想文

 市川紘司さんから送られてきました。ありがとうございます。
 たいへん充実した力作である。膨大な史料、文献、既往研究を駆使した論考である。すべてのディテールが読みごたえがあり、面白い。ぼくは現在の天安門広場が整備された1950年代に生まれたし、1個人として、文革も、ニクソン大統領・田中角栄総理の訪中も、天安門事件もテレビで目撃してきた。だから本書をそうしたそうした歴史舞台の種明かし的な説明として読めるし、なかなかスリリングである。
 さらに市川さんはそれ以前の中華民国時代を「近代」と呼び、当該地区の状況、整備、事件、祝祭などをことこまかに描いている。それはイデオロギーの覆いをいちど取り外し、ファクトの次元において描写することで、普遍的な都市史、広場史のもとで、天安門広場を語ろうとするものであろう。
 個人的には、ぼくは建築史研究としては専門の西洋をやるのみである。それ以外は読書くらいはするが、研究はしないことしていた(そもそもできない)。それは1980年前後から表明されていたアジア・中国スタディ指向をみて、これがこの先の主流として尊重はするが、自分自身は天邪鬼的にそうではない方向を選んだ結果であった。今はそういうことにはこだわっていない。ただそれは自分の限界を規定している。だからあくまで建築史全般・建築論全般の立場から読んでの、専門外からの感想文にとどめる。学会誌などで書評するならこちらも論文・文献などでいろいろ確認しなければならない。しかしブログではそこまでやらない。だから「感想文」である。
 そういうわけで各論は、赤裸々なファクトとして自分なりのさまざまな興味から楽しんで読む。総論は、中国の歴史や政治的・体制的な状況とてらしての分析と批評はできないので、一般的な建築史、都市史、建築論などの文脈から感想と若干の批判をしてみたい。あいかわらずの土居調はご容赦を。
 それにしても本書は、都市、建築のみならず政治、社会などに関する多様な議論を触発するような、どこを切っても論点を提供するような、重要文献となるであろう。

(1)「革命」をどう位置づけているのだろう?
フランス革命についてもその論争史・研究史なるものがあって、詳細はわすれたが、段階革命論、政治論、経済論などいろりおである。最終的には200周年の1989年前後には、文化としての革命というくくりで、革命文化論がいわれた。ピエール・ノラ『記憶の場』、モナ・オズーフの『革命祭典』、日本なら立川孝一の成果などである。
 市川さんも、北京市内のデモ、祝祭、行列がどの経路でなされるかを示しており、興味深いが、基本的にはオズーフらの路線である。
革命を文化として扱える段階になってやっと、都市や建築も、革命との関連で論じられるのであろう。
 そういうことでいえば市川さんは、ベネディクト・アンダーソン『幻想の共同体』を引用しながら、ソ連共産党は皇帝権力の場所であったクレムリンを拠点に選んだように、中国共産党幹部もまた紫禁城を選んだことを指摘している(pp.025, 240, 313)。市川さんは「まえの所有者が逃げ出してしまった大邸宅の複雑な配電システム」のスイッチを入れ直すというレトリックがお好きなようである。アンダーソンは、空間的表象を喩えとしてつかいながら権力機構の移行の話をしていると思うのだが、本書は、どうも空間についてのベタな話としているようである。
 まず蒋介石は南京に遷都したことにも言及している(p.025)のだが、遷都/非遷都もすでに空間文化論なのだから、そこからいろいろ引き出せないだろうか。たとえば王権は移動するものであった時代、首都はたびたび変更された。イスラムでもそうであった。キリスト教圏でもそうであった。ところが近代こそ、首都が固定された。保守も革新も、首都にこだわり続けた。アンダーソンは無意識のうちに首都の固定化という歴史的プロセスの上にいるようである。ひとつは、そもそも革命なるものが、リセットではなく継承を目指すものであった。理論的には、歴史的必然というメカニズムにより革命は不可避であるというのがイデオロギーであった。だから革命は歴史という共通の基盤のうえに立つのである。革命は、切断ではなく、みずからを歴史化し、正当性を得るのである。つまり切断であると自称する革命が、じつは本質的に、背後に連続性を求めるものであったとしたら、どうであろう。
 この場合、クレムリン紫禁城はなにを意味しているのだろう。場所だろうか?史実などから明らかなように、官僚機構ではないか。官僚は優秀であり行政上の情報を握っている。だから追放などをせずに、組織替えをし、あらたなミッションを与えれば効率的に働く。それが近代であろう。革命がおこる国は、そもそも官僚機構がそれなりに発達しているということもいえそうである。
 ではこういう近代の革命メカニズムは独自なのだろうか?そうでもない。イギリスはムガール王朝の後継者としてインドを統治したし、フランスはオスマン帝国の後継として地中海諸国を支配しようとしたのだが、この構図は中国史ではむしろよく知られた構図であるはずだ。それがソ連ロシア帝国との、中華人民共和国清朝との関係であって、この関係は世界史のなかでかなり広がりがあるのではないだろうか。すると大陸では古代王朝がそのまま続いているという話は、喩えではなく普遍的概念であるということになる。それでは革命とはなんであったか。その理解そのものが更新されなければならない。

(2)「広場」概念を検証しないのだろうか?
 市川さんが前史、「近代」、1911-1948年に集中する正当な理由づけをしているのはよくわかる。それでも1949年の建国から、天安門前は根本的に整備されなおして「天安門広場」となったと記されている(p.244)。このくだりはわかりきっているようで、じつは、ぼくはよく理解できない。
 この理解しにくさは、ぼくにとり、皇居前広場ですでにはじまっている。「皇居前広場」とは通称なのか?公称なのか?法規上のそれなのか?何法が定めるのか?常識的にはそれは通称であり、(どの?)正式には「皇居外苑」であり、都市計画法第11条(都市施設)では北の丸公園日比谷公園と合わせて「東京都市計画公園第5・8・23号中央公園」が正式名称である。もちろん都市計画法上で広場とはなにかは説明されているとはいえ、広場はむしろ広場理念が先行するすこし不思議な存在である。ましてや皇居前広場とは漠然としていう名称である。それを広場としてかたる、独特のあるいは普遍的な意味をもつ広場として語るとはどういうことか。それはむしろ、話者が「広場」概念に汚染されているからである。
 では天安門広場はどうだろう。P.244以降では1949年からのあわただしい建設の経緯がきわめて詳細に記されている。でも、それは通称なのか?公称なのか?法規上のそれなのか?何法が定めるのか?本書の冒頭で「北京皇城正門である天安門の南側に広がる空間(オープンスペース)を指して固有名称的に「天安門広場」と呼び表すこと自体、一九四九年以後に生まれた慣習にほかならない。」(p.008)と書くときに、そもそものこの広場の、通念上の、制度上の、法規上の・・・などなどの定義をもっとくわしくしてほしかった。研究論文としては最低限そうすべきではないか。
 本書は、1949年の天安門広場誕生の前史、「前日譚」を際立たせようとしている。それなのに1949年以降に誕生した天安門広場とその名称を、それ以前のT字路でしかなかった時代にまできわめて大胆に遡及して使っている。このT字路は、明清時代も天安門広場であった。中華民国においても天安門広場であった。などとするのはカテゴリー錯誤であろう。将来の天安門広場、後の天安門広場などともいえよう。しかし常識的にはその時代ごとの一般的な呼称を使うのであろう。そうしない理由はぼくにはよく理解できない。
 そもそも「広場」の語源学的な説明くらいしないのだろうか。
 ぼくはささやかながら広場論を述べたことがある(『言葉と建築』、XIV章「広場」への永劫回帰、1997)。広場そのものは通史的にあるが、「広場」理念はまったく近代的である。それは19世紀歴史学の発展のなかで、古代ギリシアアゴラ、中世都市の市場=広場などが理想化され、近代都市計画での再活用がもとめられるようになった。そのピークがCIAMにおけるギーディオン「都市のコア」論(1952)である。近代建築の核心とおもえたもののベースは、やや古くさい19世紀歴史学なのであった。しかし日本の建築界はいちはやくそれを認識したようであるし、戦後いちはやく丹下健三は広場理念を表明した。さらに日本の国語辞典では、おそらく、『大日本辞林』(1907年)が「広場」初出であり、広場が社会的な集いの場所だという意味をもってするのは『広辞苑』第三版(1983)からである。
 すると世界史的にみて、天安門「広場」とするのが1950年代以降なのはむしろタイムリーである。繰り返すが、ギーディオン「都市のコア」論(1952)、天安門広場整備(1950S)、ついでにマックス・ウェーバー『都市の類型学』(1956)などとである。まったくの同時代諸現象といえよう。ウェーバーは最後にもういちど触れるであろう。
 市川さん自身の理念はきわめて控えめに表明されている。 「禁地の宮廷広場だった広場が開放的な公共空間になった」(p.325)、「オープンネス(公共性)」(p.414)、「空隙(オープンスペース)」(p.415)などとあるように、イデオロギー、制度、料金(入場料なしという意味でフリーな)などあらゆる拘束から自由になった空間。どちらかというと中華民国肯定論であろうか。それをぼくは否定も肯定もしない。ただそういう理念がどういう歴史的経緯から出現するのか、すでに表明された理念のどれに相当するのか、これからどう実現すべきか、検討してほしい。なにか発見があればぜひ聞きたい。

(3)「国民」概念、「人民」概念を検証しないのだろうか?
 侯仁之と呉良鋪は1977年の論文のなかで天安門広場を「人民広場」だと呼んでいる。ぼくはそれに納得する。人民大会堂がそれに面している。なにより中華人民共和国(People’s Republic of China)なのだから。
 しかし本書はこの広場が「国民広場」だとずっといっている。妹尾達彦「国民広場論」(pp.012, 371など)やベネディクト・アンダーソン、エリック・ホブズボームらの国民国家論などを借用したので、それらに引きずられている。ぼくは妹尾達彦をよく知らないが本書から遡及して想像するに、この国民広場論は底が浅そうである。ましてアンダーソンの国民創出説も、それまでの諸説を編集したていどのありきたりの論であるとしか思えない。しかも民主主義的な先進国を念頭においた論であって、世界中のあらゆる状況に適用できるとはかぎらないという印象である。
 ところが市川さんは広場におけるさまざまなイヴェントが「群衆を中国の『国民=人民』へと統合していく」(p.273)などと書き、短絡的に人民は国民だとしている。ぼくは、そうではないと読む。むしろ人民と国民はいかに違うかを考え抜くことに、天安門広場論の可能性があると思うのだ。
 すなわちアンダーソンの粗雑な要約のそれ以前にもっと知っておくべきことはおおい。
 個人的に思い出すこと。かつての同僚の教え子が、研究発表をして、メトロ・マニラの広大なスラム(不法占拠地区)の自助的まち整備のしくみとしてPeople’s Planがあるが、それを住民参加プランなどと訳したので、Peopleは住民ではないでしょ(なにしろ不法占拠だし)、普通英語でPeopleといえば社会の比較的下層の人びとなのですよ、・・・などと愚見を述べたものであった。
 しかしこの話はかなり広がりがある。つまりまさに近代社会、近代国家において「人」はどのように規定されるのであろうかという根本問題である。フランス革命ついでに、かの国の人権宣言、憲法などの規定において、「人」は、「男 homme, man」、「市民 citoyen, citizen」、「フランス人Francais, French」などとさまざまな形で呼ばれていた。もちろんぼくが知る限りではある。しかし現実はもっと錯綜していたであろう。政治学者によれば、普遍的人間(人類)か、フランス領土内の人間なのか、どちらを想定するかということと関連していたらしい。
 ちなみに「人民 people」は、アメリカ的理念においては植民地の人間であった記憶がそうさせるのかもしれない。フランスにおいて「人民 people」とは、階級社会の構造が経済格差として残っていた19世紀における下層の人びとであり、庶民、貧民、細民などにかなり近いし、左派はむしろ積極的に無産階級などと偽悪する対象であった。ちなみに日本にも古くから人民概念はあったが、明治政府は「人民」概念を制度のなかから排除した。
 国民(national)概念について、じつは専門外のぼくはお手上げである。日本国憲法は国籍法により日本国籍を与えられた者が日本国民であるとして、定義をあずけている。そして国籍法はほとんど手続き法である。すると理念をもって国民を定義している制度そのものが空洞ということになる。アンダーソンがいう幻想の共同体とはじつはこういう事態をいうのであって、出生、言語、文化、表象体系などはとってつけた議論にすぎないように思える。
 ともかくも「人民」と「国民」は相反する概念であるというのが一般的な理解である。左派や共産系は「人民」を好む。保守派や自由主義圏は「国民」をとる。これが定式であった。だから中華民国時代に「国民」概念がすこし登場するのは、どこかからの入れ知恵だろうか。
 だから1950年代に天安門広場が整備されたのち、当事者たちはそれを「人民広場」と呼びたがるのはしごくまっとうである。するとなにゆえ、どういう政治的背景から、市川さんは人民=国民などとするのであろうか。


あとは各論的な興味である。
(4)公園化について
1930年ころから公園化政策(p. 157)がなされるが、これはすこしまえの欧米におけるパークアベニュー、田園都市、グリーンベルトなどの模索の、中国的帰結なのだろうか。華南圭のパリ留学(p. 166)はぼく的には興味があるが、だれにエンジニアリングをならったのだろうか。造園家フォレスティエがパリに街路樹を植えていた時代である。「路」としたとき、漢語でありながら、なにかフランス語のテクニカルタームを念頭においても不思議はない。しかも植樹をするのだから。天安門前もまた、「路」として認識していた。張武の「公園化された都市」(p.193)も同様だし、アーリントンが「中華路」を「並木道」と表現するのも(p.222)欧米的視線を素直に投影した結果であろう。

(5)個人崇拝
孫文が「国父」として扱われた(p.208)とあるが、アメリカや日本と同様なのであろうか。

(6)博物館化
故宮の博物館化(p.186)も西洋的という印象なのだが。

(7)最近の権力空間論は参照しないのだろうか?
 権力空間論としては政治学などの原武史、羽田正、御厨貴らが際立っている。おかげで建築史研究者の影が薄くなっている。天安門広場においては、穏便な国民広場などという次元ではなく、むしろ剥き出しの権力表出なのではないか。

(8)まとめ:広場論としてなにが欠けているか?
 広場論の近代における構図はわりとシンプルである。まずヘーゲルにおける世界史の構図。古代東洋的、古代ギリシア的、ゲルマン的の3段階をへて、人間の自由は拡大されてきた。19世紀後半はその自由の表象として、人びとが集会する広場をみる。
 ハンナ・アレントの論考は小さな広場論をはるかに凌駕はするが、全体主義の起源論や、人間の条件論などで基礎としているのは古典古代のポリスとその社会(人間)である。そしてマックス・ウェーバーの『都市の類型学』(1956)は、専制的な古代アジア的都市、都市共同体があるとみなせる古典古代的都市(ポリス)、さらに自律的特権が与えられたゲルマン的都市と、区別するのである。
 あらためてCIAMを代表するギーディオン『都市のコア』との同時代性はいうまでもない。天安門広場の誕生もまさに同時期である。どこかで連動しないほうが不思議である。
 こういう構図を念頭において仮説を述べたい。
 以上を念頭において素直に推論すれば、天安門広場は、こうした世界的な広場理念の普及のなかで古代東洋の専制制度を表象するものであり、体制としては東側である。だから「人民」を強調する。アンダーソンらがのちに指摘する国民国家論などは古典的ポリスを理想化するものであり、体制としては西側である。だから「国民」を強調する。
 ここまでは素直である。しかし20世紀が終わった今、その逆説を考えてみよう。すなわち資本主義とは人間ではない資本による専制を許すものであった。するとそこにポリス的自由とその表象として広場を考えるのは欺瞞であり、真実の隠蔽にすぎない。そもそも20世紀において広場は批判的な意味をもたらすものとして提示されたのであって、せいぜい鎮痛剤にすぎない。そしてたいした実例も生み出していない。
 それにたいして天安門広場こそ東洋的専制という本音を、人民という言葉ですこし脚色はしているが、むしろ率直に表現しているのではないか。21世紀になり、世界は民主的になるどころか、有力国家において独裁者的な国家元首がつぎつぎと出現している。それを見るにつけ、天安門広場こそ21世紀を預言していたのではないか。皮肉な逆説でもある。
 そしてこの仮説(妄想?)にたいしてどのような感想をもつのだろうか?