テッサロニキの回想と憂愁、あるいは研究者意識の世界性とか

ギリシアの都市テッサロニキは、たぶん1984年訪問。なんと36年もまえの話になってしまった。
 とりたてて興味があったのではない。パリに留学したとき、フランス国内はいつでも見学できるから、とりあえず、優雅に鉄道で最遠のイスタンブールでも行こうと考えた。学生だったのでいわゆるオリエント急行にはのれず、ミュンヘンからの直行便(オリエント急行もどき)でイスタンブールにいった。つぎはいよいよギリシアだ、ということでユーラレイル・パスをつかってアテネ行きの鉄道にのったら、これがひどく疲れる。たまらずテッサロニキで途中下車した、ということにすぎない。
 港町だから、開放的であろうが、とうぜん乱暴で猥雑であろうと予想していた。しかし中産階級の存在が感じられる、落ち着いた町であった。意外であった。今はどうか知らない。結構気に入って、結局、2泊3日くらいの滞在となった。
 フランス語の旅行ガイドはシンプルだが的を射た解説をしていた。前4世紀、マケドニア都市として建設。前168、共和政ローマ自由都市。476年、西ローマ帝国崩壊により、東ローマ都市。それからの経緯はややこしいので中略して、テッサリニカ王国時代もあったが、15世紀からオスマン・トルコ支配。1912年にギリシア領。たほう、日本語の旅行ガイドはほんとうに役にたたない。
 歴史的建造物もそこそこある。上記のような経緯だから、都市整備もつねになされていた。個人的興味としては、1870年代からオスマン帝国下での都市の近代化がすでに着手されていたこと。1917年大火ののちに、エブラール(Ernest Michel Hebrard, 1875-1933)らによる復興=近代化計画が策定され、ヨーロッパ的な臨海都心部が形成された、こと。エブラールは、ベトナムカンボジアなどでも活躍したらしい。ぼくのテッサロニキ印象はこの20世紀初頭の都市整備がもたらすものであろう。
 ぼく的関心は3点。
(1)都市の近代化は、オスマン帝国下の19世紀にすでに、着手されていた。もちろん都市ごとに事情はことなるのだが、地中海都市のいくつかは、オスマン帝国の政策的都市計画が展開されていた。ただフランス語の専門書を読むと、オスマン帝国はとにかくアーカイブを残すという意識が希薄なので、よくわからないことが多いらしい。
(2)20世紀になるとフランスが都市整備を支援するようになる。もちろん、委任統治として直接整備をするもの、スタッフを派遣して案を提供するもの、などいろいろ。もちろん建築や工的な技術提供(スエズ運河は最たるもにだが)は19世紀からずっとあったのだが。
(3)フランスは「都市計画法」「都市(計画)学」を1910年代に立ち上げた。その展開としては、国内も海外もおなじように視野にはいっていた。近代都市計画は、国内方式の輸出、海外実績の逆輸入、などと位置づけられることがある。しかし専門家たちにとってはようするに最新の学問・技術を提供するということで、同じことであったのではないか。いわゆる「国際性」を考察するうえでの、観察者の視点もまた慎重に設定しなければならない。
 理論的に整理してみる。都市整備・都市計画は「統治」のなかのひとつのお仕事である。では統治とは、○○人による○○人支配(自治)なのか、××人による○○人支配(これを他治とはいわないが)なのか、である。理論的には、××人は○○人に自治をまかせる、という第三の方式があるが、都市整備にはあてはまるかどうか。ともかく「統治」主体が移行したときに都市整備はどうなるか、という目でみてゆく。イギリス人はムガール王朝の後継としてインド支配を継承したが、都市整備はまったく西洋式であったような印象である。フランス人は、地中海支配をオスマン帝国から奪ったが、いくつかの事例の紹介をみると、オスマンがすでに着手していた都市整備・近代化をうまく継承しつつ、西洋化・近代化をはかったという。近代についてはデータ、アーカイブも膨大にあるので、研究すればいろいろ判明するであろう。
 ただこういう「統治の移行」は古代ギリシア古代ローマビザンチンやゲルマン諸王国・・・・などと歴史的には常態であったわけである。すると近代におけるそれが特殊なのではなく、おなじ歴史的パースペクティブでみることができそうである。
 また西洋による支配は、都市整備・都市計画の法制度化、都市スタディ資料、都市計画文書などの「知」「情報」による支配である。だから非西洋の研究者が、いかに批判的歴史観、批判的距離をもちつつ、それら「知」を活用しようとも、いちどその「知」により支配されることはまぬがれない。すると研究対象の世界性とはなにか。研究主体の世界性とはなにか。これらはまったくわからなくなってしまうであろう。そういう混迷にいちど飛び込んでみて、あらたになにかを打ち立てることなのであろう。
 ビザンチンの遺構はいくつか残っていた。レンガの積み方は構造にして意匠になっていること。現在の市井の建設技術としては、RCで軸組をつくり、中空レンガの壁体により埋めてゆくというやりかた。地中海沿岸をずっと見てきたが、これは汎用的な形式なんだなあと思った次第。たいした熟練もいらず、町場の工務店でひょいと作れそう。
 などなど連想はつづく・・・

原論的な設計教育(5)パラダイムチェンジは可能か

自己レビューはこれが最終回です。 
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●再録(『建築雑誌』2019年7月号より):
【5】パラダイムチェンジは可能か
  設計教育がいかにパラダイムチェンジされてきたかはアメリカをみればよい。フランス的ボザール教育、モダン建築の機能主義教育、反近代的なバナキュラー・アノニマス教育、コンピューター・エイディド教育、BOPを含むグローバル教育というように、大胆にギアチェンジがなされてきた。たほうで神による世界創造をなぞるのが建築家であるという西洋的幻想(たとえばフレーベル教育)が背景にありそうだ。神の法則(物理、世界、環境、情報など)から人間は逃れられない。神の摂理、すなわちある基底的なアルゴリズム(OSのようなもの)のうえで、建築家は設計し、人間は自分の世界を構築している。だから設計とはその基底的なもののうえでいかにカスタマイズするかの謂である。それが日本では、神のごとき建築家などとんでもない、民主主義だ、参加型だ、共創だなどという勘違いの議論となるであろう。ところが超越的次元が生きているところでこそ大改訂はなされうるのではないか。明治このかた偉大な先輩たちが考案した「伝統」もまたこの「基底的なもの」であったのだ。ただ超越性が不足していた。ゼンパー、マルクスダーウィンらも素材、資本、種という基底的なものにより世界を再描写した。基底への還元、初期化、再構築をし、未来を準備すべきであろう。
 日本ではカラダは建築士、心は建築家である。心を守ろうとしてカラダの欲求を軽視しがちであったと私も大学人として反省すべきである。それでも学会の問いにこたえよう。大学の高校化はむしろ希望であろう。そもそも設計教育が機能不全であるとすれば、課題が過去問の機械的な踏襲になっていたり、教員の専門と悩みを学生に押しつけるだけだからである。総合性とは分野細分化の補完にすぎず、俯瞰すれば業界的なマッチポンプがみえてくる。私が所属していた学科では、教育の不調を学生の未熟さのせいにしていた。そうではない。教育が間違っている。なぜそういう発想ができないのだろう。一九世紀いらい、教員と学生がアトリエのなかで同志的に課題を共有しているという妄想にひたれた。「福岡」や「せんだい」ではこうした業界的な一体感がまだ可能であった。しかしこの大前提がなりたたないなら、教員と学生が異世界に属しているなら、建学精神の共有などという牧歌がなりたたないなら、実験でもやったほうがよい。設計教育に原論的なものがありうるのか、純粋教育としての設計がありうるのか、そもそも設計とはどういう演算(脳の使い方システム)なのか、いちど構想してみる。そのうえで各種合同ジュリイの経験などから、次のステップ、たとえば大学を越えた機構を実験することがあってもいいだろう。

●自注:
【1】設計とはなにか、を共時的な分類で考えてみる。
 まだ助教授であったころ、1995-96年頃だと思うが、カリキュラム改訂をまかされた。そのときにたとえば、設計1、設計2、設計3・・・などという演習科目に、住居、集合住宅、文化施設、などとビルディング・タイプをわりふるのではなく、
「プロジェクトが立ち上げられる、いくつかの典型的な状況」
を着眼点として、「メトロポリス的プロジェクト」、「都市的プロジェクト」、「田園的プロジェクト」に分類することを提案した。
 2019年5月に開催されたぼくの最終シンポジウムでご招待した、明治大学青井哲人さんも、同様なことを考えていたらしい。彼は5種類にわけていた。ただしぼくは10数年先行している(えっへん)。
(1) 「メトロポリス的プロジェクト」→レム・コールハースのOMAを念頭においていた。大規模資本が投資されて、都市空間がつねに後進されてゆくような都市・社会・経済的な場において成立するプロジェクト。投資とその回収のメカニズム、採算性がプロジェクトの根拠となる。社会は流動的であり、定住率は低く、毎年の転入・転出はきわめて多い。地方大学であっても東京の大手不動産業に就職するものもいるので、これは不可欠。
(2) 「都市的プロジェクト」→日本でいえば県庁所在地、旧城下町ていどのスケールにおいて成立するようなプロジェクト。大規模資本が投資されるのは稀であり、中央政府補助金があてになる。地域社会は、名士、有力者支配がみられるが、じゅうぶん民主的であり、市民が公共的案件に発言をする。
(3) 「田園的プロジェクト」→人口5万人以下の、市政にならないスケールの、町村社会か、そもそも社会の存在が観察されないような状況でも立ち上げられるプロジェクト。別荘、僻地の公園施設、農村、農業・漁業を生業とする社会、において成立するプロジェクト。大資本の投資や国や中堅都市の公金投入もあまり期待できないが、万が一、個人資金の投下の範囲内であっても、なにかできそうで、個人のイニシアティヴ、地域のリーダーの志が決め手になるようなプロジェクト。
 3種類は、クライアント、ステークホルダー、建築メディア、地域住民、プロジェクト手続き、などが違ってくるわけだ。
 これらは「プロジェクトが成立するメカニズム」の分類なので、どのビルディングタイプにも、建築/造園の二要素、にも臨機応変に対応できるという、きわめて大きなメリットがあった。べつに従来型や一級建築士対応を否定しているわけではない。それらの上位にもうひとつのレイヤーを設定しているのである。
 建築系とランドスケープ系の教員がおり、緑地環境の設計はどこかでやらすことが不可欠。すると緑地環境プロジェクトは、大都市でも、小都市でも、田園でも求められる、などなどである。
 
【2】設計とはなにか、を通時的な枠組みで考えてみる。
これは、だれでも考えそうなことである。ぼくは2019年のSDレビューの批評をまかされたときに、あらためてそう思った。
 「依頼→受注」というシンプルなお仕事の図式は、
O(プロジェクトを発案する公共団体・法人・個人)→P(プロジェクトをまかされる建築家)
と書き換えると、なにか論理の構造のように思えてくる。
ここで重要なものは「O」も「P」も、始めでもなければ、終わりでもない。すなわち、
 N(さまざまな課題に気づき解決を考える)→O→P→Q(建築をつくる)
のように、前後がかならずある。しかもさらに、
M(気づかせたさまざまな状況・構造)→N→O→P→Q→R(新しい建築が変容させる状況)
と前後に延長できる。しかも理論的には無限に前後に延長できる。これは因果関係の連鎖であり、そもそも人の営みは前にも後にも、無限に関係づけられている。ただしどこまで認識できるかは、その認識の限界もあろう。とはいえ、まとめるなら;
(1)建築家の「受注→建設」という一工程は前後に無限に延長できる。
(2)設計する・建設するとはこの「無限連鎖」の切り取りである。
(3)すぐれた建築家は、自分が直接かかわった建設の前後を、かなり読み、予想できる。
(4)この図式は、まさに建築史こそが基底的・普遍的な基礎学であることを意味してそうではある。
 建築にかかわる者は、この前後にかなり延長しうる長いプロセスの一部に介入しているのだということを自覚すれば、いわゆる文脈やいわゆるエフェクトをよりふかく認識するようになるだろう。そうすれば建築設計学か建築史学かの違いは、学界的な論文作成のフォーマットの違いにすぎないようになるであろう。

【3】そして原論的なもの、基底的なものとは?
 「ゼンパー、マルクスダーウィンらも素材、資本、種という基底的なものにより世界を再描写した」のである。それらは定義やはじまりをきちんと設定することで、その論理展開を堅固なものとするという、典型的な西洋的思考である。ただそうした基底論は、宗教的には一神教的なものであり、最終的には、それら「基底的なもの」がいわゆる一者としてあくまで世界を支配するという、論理の循環をもって終わりそうである。とはいえ、ぼくなどとても建築においてそれらと張り合えそうにない。
 逆に、自分が所掌するプロセスを含む、長い長いプロセスを、遡及的にあるいは結果予想的に考えることは、健全な自己批判性であるといえよう。しかしこの場合、いわゆる一者を前提としないのだから、永遠の相対論になり、共有された定義も目標もなく、認識と実践は終わりなき相対論となってしまいそうだ。ぼくでもできそうだが、まったくファイトがわかない。
 1970年代以降、近代化批判=西洋中心主義批判の構図が、建築の論壇を支配してきた。それからまさに半世紀近くなって、世界建築やグローバル建築を冠とする論考ができてきた。
 半世紀たってもそれらを「完成したもの」として最終的な批評をすることは、まだできない。いくつかの徴候をあげるのみである。(1)西洋中心主義批判に基づく論考は、その批判自体が西洋的であるということに気がつかないという限界がある。(2)非西洋圏の建築を研究することはよいのだが、普遍軸を設定しないので(普遍軸を決めると西洋的になってしまう)、終わりなき相対化の作業(それ自体は賞賛されるべきだが)になり、いつまでたっても結論はでない。(3)そもそもいちど西洋が世界を支配した以上、西洋的なものがまったく不在の場所など、どこにもない。(4)理論的には、西洋を超克するには、なしくずしの相対論はまるで無能であるし、それを超克するのは、西洋以上に一神教的な、西洋以上に普遍主義的な哲学をもつものであろう。近未来はそれは現れなさそうだが、中未来になるともうわからない。もしそうなったらどう対応するか。昔の西洋中心主義批判はまったく役立たない。
 こうした状況をみつつ、ポスト・キャリアとなったぼくはなにをするか?とりあえず思いつくことを書くだけだが、(1)いわゆる西洋的な「一者」論でもなく、西洋中心主義批判のおわりなき相対化論でもなくて、(2)「西洋人が考えそうな、考えてもよさそうだが、先行研究を俯瞰してみると、まだ論じていないようなテーマ」をみつけて、そのテーマは普遍的なので日本にも妥当する(開国から150年以上も世界とシンクロしたのだから)という俯瞰のもとに、研究してみるが、(3)それはすべてを支配する最強概念でなくともよくて、そこそこの普遍性のある、いくつかの指標を探して、それらにより世界をマルチスキャンする、という感覚でやっていく。矛盾も折衷もあるのはわかっているが、現実的なところである。
 今のところ、こんな感じである。いつでも変更する。学者は最後まで学者であり、自己更新も終わりなき営みである。

『建築におけるオリジナルの価値』(2020)の読書感想

ハードコアな論考集である。なおこれは日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会の報告書であるが、学会員のよしみで送っていただきました。ありがとうございます。
 ぼくが学部3年生であったとき、故稲垣栄三が担当する授業「日本建築史」のテーマは、法隆寺研究史であった。藤井恵介『法隆寺』のはるか以前であったが、ざっくりえいばそれを講義したと思っていただければいい(細部の重大な相違などは、ぼくごときにはわからない)。稲垣が解説する、文献主義と遺構主義の争い、尺度論、若草伽藍・・・の話はたいへん高度なものであった。本来なら大学院講義で話すべき内容であった。それを学部3年で聴講できたのは僥倖であった。しかし猫に小判でもあった。受講しているうちに、ああこれは結論のない講義だろうと思いはじめた。その悪い予想は10回目あたりから的中しそうに思われた。最後は気持ちが萎えてしまって、欠席してしまった。
 ところが、こともあろうに、そのぼくは建築史研究を志すことになってしまった。修論プランをゼミで説明せよといわれたので、研究対象は「建築アカデミー」、方法論は「学としての建築」だと宣言した。稲垣はなぜこの方法論かと質問した。ぼくは、専門として勉強しはじめた建築学は、ばらばらな諸分野の並置にすぎないから、それを批判的かつ歴史的に相対化したいからだ、などと生意気な返答をした。指導教員はにやりと笑うだけであった。学問のありかたがさまざまに批判・再検討されたのが1960年代であり、おそらくその時代に批判される立場でもあったであろう稲垣は、ああまたその批判かとでも思ったのだろう。
 あらかじめ無垢な対象があって、それを学が研究するのではない。学こそが対象を発生させる。社会学者は、社会学こそが社会を創造したという。社会学が社会という概念を提供するからこそ、社会としての人間集団が認識されうるのである。宗教学者は、学の発生以前はばらばらの宗派の併存にすぎなかったものに、それらを総括して宗教であるとしたのが宗教学であるという。建築(学)においてもまた同じ事情であろう。
 だから学はそもそも自己言及なのである。すると学問の主軸であるのは学術史・学説史なのであり、その周囲に膨大な数の各論的研究があると思ったほうがいいだろう。・・・報告書をよみながら、連想はどんどん脇にずれていってしまった。   
 元同僚をひいきするのではないが、全体が加藤悠希さんの論考だと思ってよむと、わかりやすい。ただ「オリジナル」概念はもともと曖昧である。報告書全体においてもそうとどまっている。もともと美術産業において贋作問題からオリジナル/コピーがいわれた。もちろん加藤さんが指摘する19世紀ロマン主義における独創性神話、それから話題になっていないがベンヤミンの複製技術時代の諸課題なども関連してこようし、デジタル化に及んではそもそもそういう二元論に意味があるのかどうかわからない。文芸においては作品をものした作家の唯一無二性が不可欠の根拠なのだし(ちなみにフランスの哲学者が『もし著者を交換したら』という趣旨の、ひねくれた論考を提供している)。さらには知財時代における著作権は建築には該当しない。建築設計は基本的に共同作業である以上、「建築家」は設計組織の長というたんにお飾りの場合も多い。そうしたことから、そもそも理論的仮設としての「建築のオリジナル性」がどう設定されているか、読めない。そのかわりに各論、カテゴリー区分、具体的問題の提示、その錯綜性(にかんする専門家の困惑)の示唆、などが示される。「オリジナル」は最後に再論するとして、それぞれの論考を味わっていきたい。
                *
 赤澤真理さん「はじめに」では、1994年奈良会議で整理されたオーセンティシティ概念から「オリジナル」という下位審級が問いなおされていることが紹介される。思い出の奈良会議である。ぼくは「発表しなくていいからロビイストとして自由に観察してくれ」という素晴らしいオファーをいただいて、出ることになっていた。しかし本務を代行してくれる人がみつからず、泣く泣く断念した。地方大学ってだめだなと思いつつ、これで出世コースから脱落したなあ、と思ったものであったし、そのとおりとなった。ひどく後悔したが、もう歴史であり思い出である。
 海野聡さん『中世興福寺の伽藍復興に見る建築の〈復古〉思想』では、ぼくなどは和様の復古はたんに歴史的現象としてのみ教えられていた(正確には、だれも教えてくれないので太田博太郎を読んで満足していた低レベル)が、〈復古〉はまさに思想・意図・意識であったことを指摘している。すなわちオリジナル/コピーという意識がそこにあったという重要な指摘である。連想にすぎないが、「復元学」とは愚論「学/自己言及」からみれば、復元の自己点検・自己批判に相当するのではないかと愚考する。
 赤澤真理さん「王朝物語絵を通してみた舗設の継承・変容・復古」。赤澤さんの『源氏物語絵・・・』(2010)はいわゆる絵画資料を建築の傍証とする構図を転回して、むしろ絵画イメージを主役にすえる、イメージと意識の系譜を指摘した。門外漢ながら個人的は注目しており、公式の場でプッシュしたこともあった(時効)。
 今回はメトロポリタン美術館での源氏物語展(2019)の紹介など、日本文化の国際性の現状紹介はありがたい。論考からの連想だが、たとえば西洋絵画史とはひとつのモチーフについてつぎつぎと変奏・バリエーションが描かれるその歴史であったこと、それは美術がある意味で「学として」自律し、自己言及と自己参照をしている構図がずっとあったこと、を連想させる。そこでスクール(school)は、流派であり学校であったが、その教育研究機能を自立させればアカデミーになる。なるほど「各時代の源氏物語に対する理解の変容過程を明らかにする」という目的が達成されているのだが、しかし、「継承・変容・復古」を可能にしたメカニズム、すなわち自己参照・自己言及のシステムとして、その意識を描くと普遍的にすっきりすると思われる。すると各時代の絵画作品のおりなす相関図の上位に、俯瞰的な観念が想定できるのである。
 米澤貴紀さん「習合神儀礼の場の構造」は、ぼくは論じられる立場ではないが、オリジナル/コピーの関係が宗派の関係から投影されるという重要な指摘である。当事者の意識としてどれほどであったかは、ぼくではよく理解できない。そもそも宗教儀礼にオリジナル/コピーという二元論はなじむのだろうか。
 ただ西洋建築との比較ということでは、すばらしく示唆に富む。すなわち西洋の宗教建築は、コピーすることでオリジナルに接近するという二元論の克服であるようにも思える。古代神殿は建築史学的には、物的特徴で分類されるが、しかしおなじユピテル神殿が各地に建設されるとき、それはなんらかの移動、分有、模倣という意識があったかどうか(あったのであるが)。クリュニー派修道院は、修道院建築のプロトタイプが各地で模倣されたとするが、異説もあり、さらに守護聖人との関連で各遺構を論じたものは少ない。建築プラン、様式が普及しつつ(模倣されつつ)、聖人の聖遺物が分有される(ことで各教会堂のオリジナルティが保証される)システムは、コピーのオリジナル化でもあろう。さらには近代になって、もと教会堂であった遺構と、教会機能とが分離されたとき、オリジナルをどう考えていいかは、遡及的なトリックでもしないかぎりわからない(だからそもそもそういう設問はしないほうがいい、とさえ思える)。
 加藤悠希さん「神社本殿にかえる形式の選択と模倣」もおなじ関心で読み続けることができる。すなわち、神社の「○○造」を区別しようという意識はすくなくとも16世紀末からあったこと、「造」の模倣という行為が宗派宗門間の軋轢となった事例があったこと、近代建築学はそれを西洋的な様式分類に相当するものとして継承していたこと、伊東忠太も「唯一神明造」を伝聞的に伝えていること(太田博太郎『序説』は注なしでそれを継承しているが)、伊勢を模倣しようとする熱田事件がそうした近代様式(造り)観の背景にあったこと、ことが紹介されている。遺構の整理学とも素人目にはおもえた日本建築史をすぐれて意識の学として再読しようとする加藤さんらしい雄大な構想であり、特段の批判はなく、ぜひ続編を読ませていただきたいものである。
 ただおもしろいことに、いくつかの事例において、まさに「模倣の否定」から逆方向にオリジナリティが浮上する、「模倣の否定」がオリジナリティ意識を事後的に生むという構図が示されているように、ぼくは読んでしまうのである。この発想の射程はきわめて大きい。すると、そもそも「オリジナル」の事前の定義を探すのはかなりむなしいことで(そういう規程があってもいいのだが)、まさにぬきさしならぬ実践の場における「模倣の否定」(あるいは「モデルの不在」米澤論考)はなぜ、いかにして発生するかの意識の問題である。そしてここにも自己言及、自己参照の意識がはたらいていそうであり、近代におけるそういた自問自答はすでに「学」の基本構造を含んでいるのではないか。すると近代大学制度はたしかに学史の切断であったとしても、それを越える「意識」の連続性に注目するのは価値あることだといえる。
 稲垣智也さん「城郭建築のオリジナルと復元」は現場における専門家・担当者の苦悩が伝わっているきわめて啓蒙的な論考である。くわえて城下町を原風景とする日本人にはとてもアプローチしやすい題材である。
 そこで理論的読み解きというより、一市民としてのぼくの乏しい古建築体験を披露しよう。ぼくはいちおう西洋建築史研究者なので、フランスを中心としてヨーロッパの教会堂や城郭な町並みをそこそこ見てきた。若いときに見はじめてすぐ自分に課した軌道修正は「古建築なるものはすべて19世紀の創作である」と思うことであった。そうするとストレスなく楽しめる。有名なポール・アバディが修復したペリグーのサンフロン教会なんかがそうである。35年ほどまえに初見したとき「偽物」の大音響が脳内にこだました。たとえば交換した石材量を定量的に量れば、そういうことになるのではないだろうか。だからフランスに中世建築など求めないことである。はいいすぎにしても、そうしたゼロ地点から建設的に足し算して理解していけば、だまされたという意識も生まれない。
 話題のピエールフォン。19世紀を擁護するつもりはないが、21世紀初頭の意識で断罪してもしょうがない。そもそもフランスの文化財行政を規定するのは、19世紀末と20世紀初頭に制定された歴史的建造物法なのであって、それ以前のものを遡及的に責めてはいけない。さらに文化財に指定されたものをみれば、19世紀は教会建築がほとんどであり、城郭や宮殿が指定されはじめたのは20世紀にはいってからである。したがってナポレオン三世はほとんど個人別荘のような感覚(まあ公私混同もあったであろう)でヴィオレ=ル=デュクに修復を依頼したのであろう。
 ちなみに、そもそも、ピエールフォンが中世城郭だとおもって訪れるフランス人がどれほどいるのだろう。むしろ、ナポレオン三世のご所望だったものを見て(コケにしたり)楽しむためにゆくのである。そして皇帝の表象としてのハチや、連想されるフランソワ一世としてのサラマンドルを愛でたりするのである。
 あるいはピエールフォンは、その反省から20世紀的な保存理論が検討された契機となった歴史的なものということで、逆に、建設的な評価がされるべきであろう。さらにさらにいえば、ピエールフォン以前・以後では、文化財概念が及ぶ範囲は格段に拡張され、私有財産でも文化的な価値があればそれとして公有のものとされる法制度が、20世紀できる。
 日本の城下町についていえば、戦後復興期におけるSRC城もまた、官公庁建設、各種「祭り」の創設などとあいまって、戦後民主主義地方分権のあわい期待を、社会がさほど疑うこともなく信じていた、そういう理想のよりどころであろう。フランス人は「ファサード主義」などと揶揄するのだが、社会が「ファサード主義」を容認した背景もまた忘れがたい。
 それをふくめて、現在の法制度や理念がいかに正しくとも、過去に遡及して適応できないし、さらには現在最善であるものも、やがて古くなり誤りとされるであろう。するとなにが健全であろうか。理論的にはやはり「学」が自己言及や自己反省のよりどころとして有効であろう。ぼくはすでにお気楽な西洋建築研究者にすぎないのでいえるのだが、そもそもフランスの遺産制度もまた、カトリック/共和派のなかから生まれた、教会財産・貴族財産総国有化の永遠の後始末だとしか思えない。だからすべてはあくまで相対的である。文化財が絶対的に善だとも思えない。保存、文化財、遺産などはそれそのものが一種の大がかりな文化現象である。それは文化論として論じるべき対象である。建築を価値づける「主体」とおもわれていた文化財制度は、それ自体がひとつの文化対象という「客体」でもあるわけだ。文化財的転回といえる。するとこれも自己言及であり、「学」という健全な形態をとりうるのである。
 アレハンドロ・マルティネスさん「建築遺産におけるオリジナルの価値」は、有名なギリシアの故事「テセウスの船」によりアイデンティティ概念を検討している。意匠、材料、技能、環境の4観点からアイデンティティを論じている。感想としては、これはアリストテレスの四原因説(質料因、形相因、起動因、目的因)をもっての検討と説明と、構造的にはほぼ同じである。したがって設問も回答もすでに古代にでていたようにも思える。で、ご説明としては、オリジナルな材が失われても、オーセンティシティは守られる、アイデンティティ概念の適用によって、というように読める。
 そのほかの論考もすべて素晴らしいが、言及する余裕もなく、失礼します。鈴木智大さんの論考は、たとえばフランス19世紀になってビザンチン様式教会堂が建立されるようなものに相当する仏教の事例紹介だし、坂井禎介さんの材料保存と意匠保存の矛盾にかんする論考は、アリストテレスの質料因/形相因による「テセウスの船」解題なのだろうが、ここでは論じきれない。コラムも割愛、申し訳ありません。
               *
 加藤悠希さんは「まとめ」で、各論を適切に整理してカテゴリー化して論考している。まとめはまとめであり、報告書は報告書なのであるから、ここで批判や反論はない。ただよく書けていることもあって、そこから連想できることをぼくの感想として散漫に書いてみる。
(1)p.124にあるように、加藤さんは「オリジナル」という近代概念をどこまで遡及できるかと課題としている。そこから妄想するに、そもそも「オリジナル」概念は近代妄想であって、はいいすぎなら、あくまで「理念」であったのではないか。
(2)つまり「オリジナル」はけっして「実体」ではない。ただし誠実なる建築関係者である委員会メンバーは、遺構や現場から離れることはできないので、しかじかの建材、様式、プランはオリジナルといえるかどうかという実体的判断をしてしまう。しかし「オリジナル」とはむしろ関係概念ではないか。それをあくまで実体論でやっていくと、出口はないであろう。
(3)加藤さんの論考を読んでいきながら漠然とイメージされるのは、結局、「オリジナル=模倣されるもの」ではないか。すなわち模倣しようという試みがあり、それを禁止しようとする反作用があれば、そこに「オリジナル」概念が浮上する。それまでは「オリジナル」なものという意識はない。しかし模倣しようとしたとき、その意識がうまれる。すると模倣こそ、オリジナルを生産する、きわめて創造的な1ステップという論理の反転がありはしないか。
(4)オリジナル/コピーは反復される。すなわちコピーがコピーされる複製技術時代になると、模倣は重層的になるが、そのとき「オリジナル」概念はどうなるか?
(5)西洋19世紀の折衷主義はどうなるのであろう。そこが模倣パラダイムの1世紀であって、のちにオリジナリティ不在を批判される。19世紀は、たほうで古代や中世のオリジナル建築と格闘していており、そこで古建築保存の経験が蓄積された。すると(というかもともと)「オリジナル」問題をもっともよく検討できる場は19世紀ヨーロッパである。
(6)思考実験としてプラトンイデア論。オリジナルなものは「イデア」のみであり、現象として与えられるものはすべて模倣である。すると報告書の議論はすべて空しくなってしまいそうだが、そうではない。オリジナルは実体ではなく理念であるという趣旨と一致する。
(7)イデア論はいわば「絶対的オリジナル論」である。それをモデルとして「相対的オリジナル論」がありえる。よりイデアに近い作品は「みなしオリジナル」であり、それを模倣するのはコピーである。こうした意味でも「オリジナル」論はすべて相対的であり、各論的な対処がえんえんと続くのではないか。
(8)すべてはコピーであるという態度から出発して建築をみるのが健全ではないか。オリジナルとは、これはコピーとは考えにくいという意識で浮上するのではないか。すると必要なのは、市民が文化財に接するときの心構えについての啓蒙である。
(9)報告書のどこかでだれかが指摘しているように、建物の履歴として、創建、改築、(火災消失)、再建、用途変更、修復・・・・などと歴史的レイヤーの積層であるということを初期設定としておくのがいいのではないか。日本の文化財紹介では、おうおうにして意図的に全体像を隠しておいて、じつは再建でした、じつは・・・、じつは・・・と謎かけ演出、遡及的な説明、が多すぎるのである。西洋のようにクロノロジカルでニュートラルな履歴がまず明記され、それを念頭において見学させることがベーシックになされる。すると「ヴィオレ=ル=デュクによる修復」そのものが歴史的レイヤーにして、遺産となり、その是非を市民がその場で議論するなどということになる。そういう観点からすると「オリジナル」的思考は、歴史のなかに絶対的な固定的原点を設定することになり、それでいいのかという気がする。現在の修復もまた歴史の一プロセス、という指摘はごもっとも。歴史的建造物は多層の歴史的レイヤーの積層として現前にあるのである。
(10)理念、意識、イデア、関係などという概念をふたたび「意識」として総括したうえで再論すると、モノ(物的史料)の重要性をこれまでどおり認識しながらも、「意識」に軸足を移すのだとしたら、それは理論的にはカントのいうコペルニクス的転回に相当するパラダイム・チェンジであろう。美術は、対象そのものよりも、むしろ対象を知覚し判断する主観の内部にその根拠をもつのであるという、近代美術史学の立脚点である。
 加藤さんの意識を主軸とする着眼、赤澤さんのイメージをそうする着眼などは、そのはっきりした意図的な展開である。その効用はいろいろある。近代大学制度を絶対的な切断としないで、明治以前からあった「意識」が継続されているとしたら、そして「意識」とはそもそも自己言及・自己参照であるとしたら、「学」とはそういう自己言及の集団化だとしたら、日本建築の歴史的連続性をさらに強固に遡及できるであろう。さらにいえば私たち大学人が取り組んでいる「建築学」そのものを、たとえ前史としてであっても、遡及的であっても、明治以前にまで拡張できるであろう。そうすると建築にとりくむ私たちの「意識」が改革されるであろう。
(11)さらに考えられる効用としては、たとえば江本弘さんによる、近代ジャポニスム(これも建築関係者の「意識」の問題である)にかんする理論的な取り組みとの連動性・連続性も見えてくる。すると日本建築をひとつの「意識」あるいはいくつかの「意識」の束としてとらえられ、それで大多数の遺構を位置づけられるような包括的なものとすれば、そのとき、他文化圏(外国)がすんなりと理解でき、まさに意識において共有されうるものとなろう。
(12)さらいえば太田博太郎がその『序説』において、時代ごとの各論のまえに、とってつけたように置いていた日本建築の美学(典型的な20世紀的西洋美学を日本に移入したものであって、いまや20世紀的発想を知るためにきわめて歴史的価値の高いものとなった)を完全に代替するような、私たち自身から出発して大過去にも遡及できるような建築意識を描けるのかもしれない。近代化の過程で西洋的価値観が大胆に導入されたわけだが、先人たちはその受容のもとを、悪意からではないにしても、隠していたように思える。現代日本人研究者の意識をひとつの平面としてみて、そこに西洋的なアイディア、日本的なアイディアがどのような図柄を描きつつ組み合わさっているか、それを描けばいいだけの話であろう。ぼくというより次世代の仕事であろうが。

原論的な設計教育(4)基底的なもの

 「建築雑誌」2019年7月号の愚論がたまたま退職記念論文になってしまったものだから、自注をつけつつ反省している自己宿題。

●再録:
 すべては演算に還元される。そこでなにが基底的か。結論先取りすれば19世紀は素材(ゼンパー的唯物論)が、20世紀は人間(生権力・生科学)が基底的であった。21世紀はいうまでもなく情報である。モノ、ヒト、情報はそれぞれ異質である。ところがこれらは「操作性」の序列である。モノは物理的・化学的に重厚に、人間は心理的・生理的にほどほどに、情報は演算的に迅速かつ膨大に処理できる。
 操作性向上への欲望が「モノ→人間→情報」という上昇を呼ぶ。情報が最速だ。それ以上のものは、神による世界の設計図しかない。そして人間の操作性はこの神の設計図にひたすら接近している。とどのつまりAI帝国では「神の見えざる手」が可視化される。見えざるものが見えるのだから革命である。そこで世界の背後に神を想定するという基幹的なものへの回帰であろう。
 ここでモノ、ヒト、情報はレイヤー構造であってもよい。すると通時は共時となる。ゼンパーの建築論では基底的「素材」に工芸(人間)が介入して様式(情報)を出力する。他の19世紀の巨人。ダーウィンは「物的環境→有機体→遺伝情報」という構成である。マルクスは「商品(モノ)→労働(人間)→貨幣(数情報)」である。あらゆる商品が資本に還元され、あらゆる事象が情報化され操作性は最大化された。

●自注:
 残念ながら日本の講座制建築学のなかの分野としては、構造、環境、歴史、計画、意匠のあいだの壁はもはや克服しがたい。昨今の大学改革のなかで、融合とか学際とかいろんなかけ声があった。しかし結局、切ったりつないだりのマッチポンプにすぎない。本質的な更新はできていない。だから歴史が浅いけれど、真摯に欧米に学んだばかりの若いスタッフを集めてスタートした新興国が、あっというまに日本を追い越してしまう。いわゆる「日本化」が悪いとは思わないが、変化のスピードがまったく鈍化することはなんとかしたほうがいい。
 それでもなんとかなっていると見えるのは、日本の国内建築マーケットのそこそこの規模(日本はけっして貿易依存ではなく内需に支えられていることを再認識)、人的資源を相互に活用する人づかい能力、建築全般についての「建築はひとつ」的なあわい信頼と神話なのであろう。書斎の教授であったぼくの戯言なので、実務者たちはどんどん修正されたし。
 「共約可能性」という言葉があって、一見異なるものたちであっても、すくなくともそれらを比較できるのは、なにか共通する類似なところがあるはずだ、というような概念である。諸分野に分裂した建築において共約可能性とはなんだろうか。いろいろあるとおもうが、ウィトルウィウス聖典にもどって用強美などというのは強引な固定点をもってくるにすぎないので、却下。諸分野が現代性や将来指向性にもとづいてどんどん自己更新しながら、しかし協調してゆくはずである。そのときの共約可能性とはなんだろうか。
 いわゆる建築論や建築理論がそんな絆となるよう期待されたはずである。しかし往々にして理論もまたひとつの蛸壺化してしまう。そして全体を包容すべきという本来の使命をはたせないでいる。これは自戒の念でもある。だから「基底的なもの」とはそのような、建築を包容できる、共約可能性をもたらすことが期待されるなにかというつもりであった。
 そんなことをぐるぐる考えながら、いまや老建築史家となったぼくは、1970年代的なパラダイム理論を再活用して将来を考えてみようと思ったていどのことである。
 ようするに、
19世紀→「モノ」。素材(ゼンパー的唯物論
20世紀→「ヒト」。人間(生権力・生科学)
21世紀→「コト」。情報
などだが。
 ああ、こういうまとめかたって磯崎新的だなあと思ったりする。さらにその根元はエルンスト・カッシーラーである。さらにいえばカテゴリーに区分するという根本は、古代ギリシア哲学にまで遡及できる。すこし脱線すると、小さな原稿を書くためには種明かし的な遡及ていどで十分なのだが、いつの日か、古代ギリシアも現代も、時間軸にそった影響関係の構図などといったくだらない種明かしゲームではなく、それこそ人間がいやしくもものを考えることの根幹として、古代から現代までをひとつの同時代だと思えるような、そんな建築史=建築理論=建築論を書いてみたいものだ。過去30年間、建築史学においては、情報収集は桁違いに進んだ。しかしそれで俯瞰力が高まったとも思えないならである。
 ぼくが基底的なもの共約可能性のあるものということでイメージするのは、たとえばマルクス資本論』なのだな。資本論の核心はあたりまえのことで「資本」のメカニズムを説明したことである。資本論という原著タイトルの翻訳はあまり正しくない。それはようするに「資本」とはなにか、の説明であった。それから「メカニズム」を機械主義と訳するとおかしいように、資本主義(キャピタリズム)は「資本システム」「資本メカニズム」ととりあえず考えたほうがいい。それを、資本を最上位としたいイデオロギーとするのは悪意の解釈であって、マルクスがいう科学的なものなのではない。
 マルクスはようするに「すべてはお金に翻訳されうる」とシンプルで最強の仮説をたてた。つぎに翻訳されうるからには、「お金」と「商品(モノ、コト、サービスもろもろ)」は全面的に交換可能だからという次の命題となる。さらにこのGとWの交換系列をチャートとしてえがく。まずG系列とW系列がパラレルに描かれる。そして次が最重要。この2系列はとりあえず両立される。しかし見ようによってはW系列の、見ようによってはG系列の、「ひとつのものの自己展開」として認識できるのではないかい?だからこのプリミティブな段階ですでに、資本一元論、資本の自己増殖ということが見えてくる。(着想はここで可能だが、素人のぼくはデータでもって描くなどということはできない)。
 バブルのころよくいわれた「ヒトはまず労働して金をかせぐ、つぎにヒト(他人)に働かせて金をかせぐ、さらには金に働かせて金を稼ぐ」ということになるわけである。だから拝金主義、守銭奴というのは注意喚起の余談のようなもので、キャッチーな漫画としてマルクスはサービスしているわけである。マルクスご本人は、さほど貧困層に優しい人間ではなかったというような評伝もあるそうだ。資本一元論により、世界を支配する神は資本だ、を構想したマッド・サイエンティストであったとするほうが、ぼくにとり(こちらが思想的に支配されないので)安全で楽しい。
 こうした資本(貨幣)一元論を換骨奪胎して建築に応用したのが原広司の均質空間論であり、布野修司の社会的総空間の商品化であり、西洋における平行現象としてはルフェーヴルの空間の生産論などであったりする。それは世界の成り立ちを読み解くのに最強の指標が「空間」であるという認識である。ペラペラ、ぴかぴかの空間は無機的で非人間的だなどという印象論ではないのである。
 「人間」についてはすでに八束はじめが近代建築運動のなかの生政治パラダイムを論じているのだが、基本的には正しいと思う。ただそれは運動だけにあったのではなく、全般的な行政システム、社会システムがそうだったのではないかと思っている。歴史学では総力戦体制の研究などがなされたが、これも人間パラダイムであろう。
 そもそも20世紀こそ、労働者/資本家、市民、住民、貧民、細民、ピープル(民衆)、大衆、マルチチュード・・・などさまざまな概念をもって、それこそ大汗をかいて「人間」を捉えようとしたのではなかったか。そのなかで建築は、あえて指標をしぼることで、必要な水量、必要な空気(換気・環境)、必要な日照、必要な床面積、必要な食物(機能的な台所)・・・などという生理的、身体的な生存のミニマムな条件だけは満たすような住宅を考えた。階級をこえた人間一般を想定できるからである。これがいわゆる社会的住宅、公共住宅、最小限住宅、はたまた低廉住宅、アフォーダブル住宅、などの思想的背景である。こうしたことは日本における住宅論ではほとんど考察されない。しかし19世紀西洋には膨大にあった「労働者住宅」を陰画として、ここで「脱労働者住宅」なる造語をしてみれば、すんなりと整理できる。20世紀の公権力は、19世紀には頻繁に発生した、団結した労働者による社会動乱をよく覚えており、それを恐れていた。だから、その20世紀の住宅政策において「労働者住宅」などつくりたくないが本音であった。だから「ミニマム」とは、「労働者」の上書きとして機能しているのである。さらに労働者の団結を阻止しようとしていると疑われないよう、共用施設をつくり、住民の交流を促進するふりをしたりする。
 「情報」については、すでにぼくの世代は担い手ではないので、若手に注目すべきであろう。ただAI×ビッグデータ最強説もすでに古いようで、ビッグデータが不可欠なAIなどポンコツだと指摘されれば、なるほどそりゃそうだと思う。
 建築史学も桁違いの情報収集をおこなってきましたが、ほっておけば諸分野に分裂してゆく建築学を再統合するような、包容力にあるヴィジョンを提供しましたか?してませんね。さらに世代論的視点から学界を展望するに、昭和末から失敗の30年といわれた平成時代を支配してきたのは、1940年代生まれ世代(全共闘世代、団塊の世代などを含む)の哲学である。それは活力があり、立派であった。しかし次が見えてこない。いまのところミレニアム世代有望論を信じている。個人的にも1980年代生まれは、変な先入観から解放されたのびのび世代という印象だし、ぼくも遊んでもらえて楽しかった経験がけっこうある。まあそのあたりかな、将来展望としては。1980年代生まれつぎつぎと40歳台になり円熟してゆく2020年代は面白そう。きっと。

難波和彦さんの反論を読んでの感想

「神宮前日記」(8月8日と9日)にぼくの読書感想への反論が書かれているというので、読んでみた。
 再感想としては、難波さんの受け止め方がなにか変な気がした。

(1)「『本書の要約を試みるよりも、本書にはなにが書かれていないかを探ったほうが、その特性が際立つ』とした上で、〈人間〉と〈社会〉についての議論が少ないと指摘している点には引っかかる」という反論がのべられている。さらに人間や社会への言及が少ないのは、建築によってそれらを変えようとしているのだから、「当然のスタンス」だ、というのである。これはそもそも反論ではない。それらが述べられない理由を誠実に説明しているだけである。だから「『なにが書かれていないか』が重要だ」という愚説を、そのまま肯定している。ぼくがニュートラルに書いていることを非難とうけとってしまったのは読み書きの問題にすぎない。一件落着。
 ただ人間や社会を変革しようとしているからには、どのように変革しようとしているかは、やはり述べられるべきと思うが、どうだろう。手段と目的を反転させたは、結構。ではあらためて目的としての人間の変革ビジョンはなんだろう?

(2)ぼくが愚著で「自己言及的」について述べたことにたいして、「〈自己言及〉の論理は1930年のゲーデル不完全性定理の発見に端を発するが、それが一般に浸透したのは1960年代の〈言語論的転回〉を通してである」と反論としているが、これはおかしい。
 自己言及は古代ギリシアにおいてすでに、有名な「エピメニデスのパラドクス」すなわち「クレタ人はみな嘘つき」説としてあった。べつに古代哲学に言及しなくとも、およそ人間が言語活動をしているかぎり、言語が内在している基本構図として、自己言及などというものはいつでもどこでも普遍的にあったのである。ゲーデルがそれを高度に理論化したとしても、そこに「端を発する」のは学説であって、日常的な言語活動のなかではいつでもどこでも発生している。日常的に反復されていることに普遍的な構図を与えて説明するのが哲学であり、その学説が1930年であったとしても、自己言及そのものの初出が20世紀であるわけがない。
 ぼくが愚著のなかで「自己言及的な近代という時間」をいうにあたって下敷きにしたのは、(ゲーデルのかなり以前に)宗教社会学者エミール・デュルケムが提唱した理論である。彼は未開の社会における宗教のありかた(トーテム)を調査したあげく、神は社会であり、社会は神であるという循環を考えた。つまり社会やそれを構成する人びとは、自己を外部に投影して、超越的なものとして外在化・物象化して、ぎゃくにこの投影像により支配されているというように考えてしまうのである。つまり神とおもえたものは、じつは人間の自己投影なのであり、これが社会をして社会たらしめているという自己言及である。これが、宗教社会学者デュルケムが考えた、社会はいかに秩序をたもつかというメカニズムである(もちろんこれとて学説である)。ちなみにこれもまた宗教学、社会学の初歩であって、建築系にはなじみがないとしても、学説史として常識的なことである。
 「言語論的転回」も結構ではある。ぼくは1990年代に愚著『言葉と建築』によりそれを建築分野に応用している(かなり遅れてはいるがという意識であったが)。その転回がどうかしたのだろうか。

(3)8月9日版では「〈残像〉の後に住宅に〈聖なるもの〉が呼び戻されるとも思えないからである」とあるが、ぼくもそんなことは思ってもいないし、書いてもいない。だから「反論する気にならない」。「聖なるもの」は重要概念でありながら、19世紀・20世紀の建築史叙述において不当に無視されてきたので、その重要性をいっているだけである。
 それにしても相手が間違っていることが、自分の正しさを証明することにはならない。つまり、それでも近代住宅から宗教、信仰、象徴などが排除されたことは歴史的事実である。それがモダンであった。だから建築人類学を自称する研究者たちは、未開といわれててきた地域の住宅のなかで、いかに人びとが、神、祖先、象徴などと共棲していたかに注目して、調査を報告してきた。難波さんは反論においてもその重みを相変わらず無視している。ぼくの矛盾を指摘することで、この課題を隠すという、論理の飛躍と隠蔽である。

(4)難波さんに認識していただいたいのは、ぼくこそ、難波さんの言説を真摯にうけとり、そこから演繹して、その歴史的位置づけと未来への可能性を考えているということである。
 たいへん僭越ながら、建築史家として建築家をプロデュースするなどというえらそうなことを試みると、難波さんはまさに脱人間化・超人間化の住宅作家としてアピールすべきである。
 「核家族」概念がここで重要である。難波さんはなかなか「労働者」とか「核家族」とかを定義しようとしないので、ぼくがすこし補足してみよう。
 「核家族」は近代特有でもなく近代になって生まれたのではない。文化人類学者は、それは人類のさまざまな時代・地域にひろくみられる普遍的な形式であるとしている。その古式が近代にも出現したのである。だから「核家族化」なのである。イギリスの歴史学者ピーター・ラスレットも1980年代以前からすでに、核家族は歴史的に普遍的な形式だと指摘している。
 かつてぼくは黒沢隆の個室群住居について核家族という文脈であれこれ書いたら、黒沢さんからメールがきて、ピーター・ラスレットや核家族普遍説くらい当然知ってますよとさとされた。つまり、やはり常識だった。それは余談として、近代のなかには古式がさまざまな形で復活しているのように、20世紀の核家族化とは普遍的な家族形式の20世紀版だったと解釈すべきである。
 するとたしかに家族性も人間性もさまざまではあるが、レイヤーを調整すれば、時代を超越した人間性・人間像を想定できるはずである。建築家はなぜそのことをいわないだろう?
 20世紀初頭の近代住宅はまだまだ解明すべき点は多いとはいえ、そこで普遍的人間像が探求されたのは確かである。それはかならずしも20世紀初頭のみに妥当する人間像ではなかったはずである。
 そして最小限住宅/立体最小限住宅を基本スキームとするなかで、偉大な先人たちの提言のなかにすでに普遍的家族像・人間像は内包されているとしたら、まさに「箱の家」は普遍的人間像を潜在的にせよ内包した、基本をいじる必要はまったくない普遍的なものだ、と主張できるのである(ぼくは可能性をいっているだけで、ぼくが主張しているのではないが)。
 そして「残像」が普遍的という逆説がここで生まれる。残像とは持続する脳内イメージである。だからこそ時代の流れにそいつつ構造、構法、素材、環境、エネルギーなど、すなわち難波さんがいう「建築の四層構造」を、たえず更新できるのも、この基本設計の普遍性のおかげである、と立論できる。しかも家族論ベースの住宅論とは、基本的には行政学的なのだから、そこから距離をとった建築家の住宅論とできる。
 こうして、あえて人間に言及しないことも積極的な意義のあることとしてアピールできる。「語らないもの」のなかに真実がある、ということになるのである。

 

原論的な設計教育(3)設計に原論はあるか

この連番を忘れていたが、思い出して復活。たんに備忘録だから読まなくていいです。もし読んでしまったら笑ってください。

●再録:
 それにしても、そもそも設計とはなんだろう。かつて情報化がいわれたころ、私たちは情報の海に漂うのであろうとされた。昨今のAI指向はそれへの回答になっている。数学者によればAIが人工知能とはいいすぎで、順列組合せにすぎない。コンピュータの演算能力は桁違いなのだが。
 ともあれ情報の海からAIによりある論理素「A→B」が導かれる。ただしそれは単純な因果律ではなく、きわめて曖昧である。「AならばB」はカテゴリー領域の分割にすぎない。時間をいれると「AからBが生じる」と生成ができる。このように「→」はカテゴリー/分類、原因/結果、理由/行為、目的/実践など多義的である。そこにあえて積極的な意義を見いだす。「A」と「B」は水準が違う。たとえばソフト/ハード、機能/形態、プログラム/スペースなどと異次元であると設定してみる。すると「→」は一種の「変換」や「翻訳」であり、「設計」でもありうる。
 古典主義建築も理念/造形、法則/実際という二分法のなかで「→」を考えてきた。モリス主義は設計(考えること)と製作(つくること)の再統合をめざした。ぎゃくに建築計画学は計画/設計の二分法などにより「→」を多段階化した。ヨーロッパではスタディ事務所が計画学の機能を果たし、公共にも民間にも対応する。AI技術を建築課題に適用するノウハウのある日本型スタディ事務所があればよいということになる。ただ情報はスタディ/設計/制作を再統合するであろう。分節と統合が周期的に繰り返されよう。
 都市論とはある理念型を現実のカオスに投影してその有効性を検証することであった。ところが理論的には、ある都市のすべての部屋とすべての道をデータ化すれば、ほぼ完璧な類型化、統計化、仮説構築などが瞬時にできる。

●自注:
 ともかく九州芸術工科大学の環境設計学科というところに着任したものだから、なにせ「設計学科」なのだから「設計」についてまったく考えないというわけにもいかない。
 授業にはまったく反映させなかったが、ぼくがずっと考えていたのは「設計とはいかなる脳の使い方か?」「設計とはいかなる演算形式か?」「設計とかいかなる論理形式か?」などということであった。真理解明できなくとも、自分なりの了解が得られれば、建築史の研究にも、設計演習における学生指導にも、そのほかあらゆる分野に役立つ普遍法則とできるはずである。すでに動かしがたく固定化されている日本の講座制建築学は、産業構造とリンクしてしまったので、どうしようもない。やがて大革命がおこって根本的に再編成されるにしても、ぼくは引退していそう。だから、自分なりの了解をつくっておけばよろしい、くらいのことであった。
 上記の「→」論は、古典主義建築にも、モリス主義にも、近代建築にも普遍的に妥当する。するとそれは古代哲学ですでに考えられていた形式論理のようなものになる。すなわち素材、データがいかなるたぐいのものであっても、普遍的に作動する、処理のしかたである。「なにを処理するのか」はフリーであり、「どう処理するか」が問題である。そのようなレベルである。
 都市学、都市計画学は、西洋では20世紀初頭に都市計画法の制定に即応して、立ち上がった。しかし日本では、1960年代にやっと東大工学部に都市工学科ができたし、今でも都市を冠する研究教育組織は少ない。
 とくに地方は、都市学不在の状況がずっと続いている。たとえば九州にはほぼない。九大にも建築学科のスタッフとして都市計画専門家がいるだけで、せいぜい研究室レベルである。そのほかの大学にも例外的にそれらしきものもあるが、全体として少ない。しかも九州の都市計画学教員は、ほとんと東大、つくば大、早稲田大出身者である。九州はその分野の研究者スタッフを自給自足できないのである。九州は経済規模もそこそこで、多様で、豊かな地方であり、美味(うま)し国と呼ぶにふさわしい。自治体も多様であり、魅力も問題も山積している。そのような地方で、これからの地域社会、自治体において指導的立場にたち、地域を経営してゆく優秀なスタッフを現地生産できない体制となっている。首都圏からの輸入にたよっている。ついでに東京のコンサルに食い物にされている。
 九大でも文科省のいいつけで人社系学部の再編成を指示されたとき、ぼくもWGメンバーとして呼ばれた。そのときに九大に欠けており必要とされるのは、都市スタディの学科・専攻であると主張した。最終的には多学部が参画してのアジア圏中心の都市スタディを研究組織として設立することとなった。愚説もすこしは貢献しているかもしれない。
 九大には環境設計学科と建築学科の2つの建築系があって、統合するのしないのと10年以上議論しても固まっていない。ぼくの提案は、国際的な標準形とするというものである。すなわちハーバード、MITやアジアのフラッグシップ的国立大学はそうなのであるが、都市系、建築系、芸術(設計)系の三位一体である。だからすべてを1学科に集約して大建築学科とするのは愚の愚である。行政学をも担える都市系、工学ベースの建築系、芸術・設計ベースの設計系の3学科トリオが世界標準である。九大の場合、後者2者はすでにあるから、都市系をつくれば世界標準があっというまにできる。
 くりかえすが1学科集約はたんに合理化である。そして弱体化の路線である。文科省は喜び、大学は弱くなる。しかし3学科ともなれば、1学部ともできうるし、地方の課題に答えつつ、世界レベルに到達することも可能であろう。発展の図式が描けるのである。
 最後の都市論云々はAIを極論した理論的な妄想である。すなわち都市を理解するとはなにか。直裁なのは、すべての建築、すべての部屋をスキャンし、データ化することである。社会を理解することとはなにか。それはすべての市民を調査し、指標によりデータ化することである。しかしそれは大変なので、ごく一部をサンプリングし、仮説をたてて、理論化する。その理論を現実との齟齬がないかどうか検証する。都市学、社会学というのはそれである。ここでも「理論」と「現実」という2項目が関係「→」で結ばれる。ある形式論理でリンクされる。それが都市学なのであろう、と想像するのである。
 ぼくがポスト・キャリアのなかで考えてみたいのはこの形式論理「→」である。いくつか素案があるのだが、それにむかっての読書と愚考をつづけている。まだ萌芽的なのでしばらくは秘密である。

難波和彦『新・住宅論』放送大学叢書(2020)の読書感想文

 難波さんより送っていただきました。ありがとうございます。
 一読して「近代住宅の残像」という言葉が心中に浮上してきた。
 本書では、いわゆる建築の四層構造と戦後日本とでマトリクスをつくり、そこに多くの項目を適材適所にプロットして、わかりやすい構図を描いてる。理論的な「小さな家」「生きられる家」も面白いが、圧縮しすぎていて語り不足で、残念ながら評論するに覇気がでてこない(のでおまかせします)。全体としては実践的な建築家の自画像を、戦後日本の住宅建築へと拡大しつつ、最後にやはり理論と実践の統合体としての建築家自画像へと回帰するという、わかりやすい文献である。
 ちなみにぼくは1990年代中盤に「jt」誌の月評を担当していたあいだに、箱の家の第一号を見学するという僥倖を得た。そのとき編集の大森さんらとともに、難波さんにその住宅を丁寧に紹介していただいた。そののち雑誌における書き物などから、彼自身が語っていたことを思い出すと、次のようなことであった気がする。つまり、箱の家シリーズのクライアントはそもそも家族の形態が崩壊しかけている例が多い。そうした、理想化された近代家族ではなく、ありのままの現代家族が、この住宅にすむことで近代家族の輪郭をたもつことができる。などということであった。
 これは受け取りようによっては、山本理顕のいうように家族形態があってそれに適合する空間が設計されるのではなく、空間形式があってしかるのちにそこに住む家族形態が実体化されるという論理の組み立てと相似である。
 難波さんはおもに技術面からアプローチし、山本さんはおもに家族論・共同体論からアプローチするとはいえ、それらは典型的なモダニスト的なものといえよう。
 難波さんは四層構造についてすでに詳細な論考を残しているので、それを説明するのにいまさら多弁を要しない。ウィトルウィウス的な用強美に+αしたもの、日本的な構造・環境・計画・歴史意匠の講座制にも相当するもの、という説明である。日本的な講座制建築学に引き寄せるのは個人的には好きになれないが、ここではいいとしよう。
 さらに主として日本の戦後を扱っていることは大きな特徴であり、その点でもモダニスト的であるといえる。基本的には、日本戦後は戸建持家政策でやってきた。たしかにそうではあるが、回顧してみるに、この核家族を基本とする住宅政策は強烈ではあったが理念は短命でもあった。戦前のいわゆる封建的な家制度、家父長的なものを否定して、それにかわる家族愛を絆とする民主主義的な核家族という理想像なのではあった。しかし黒沢隆はいちはやく個室群住居概念の提示により批判するのだし、1980年台には映画《家族ゲーム》により漫画化されるし、大澤真幸は『虚構の時代の果て』のなかでは、ごく短い理想の時代、夢の時代として暗示されている。すなわちごく短い賞味期間しかなかった。
 もちろん郊外住宅地の爆発的な形成というかたちで、住宅エンジンなどとも呼ばれながら、経済的にも大成功を収めながらも、その理想や内実はまさに内部から崩壊してゆき、市民の夢や理想と言うよりは、住宅産業、経済そのものの自己運動として虚無の発展をとげたものであった。
 そうすると2020年の時点から回顧すると、核家族/戸建持家をすんなりと信じられた時代よりも、それを批判し疑い続けた時代のほうがずっと長かった。その間もnLDKが批判されつつ膨大に再生産されつつあったのである。
 20世紀初頭ヨーロッパにおける最小限住宅の理念が、終戦直後の池辺陽の立体最小限住宅となり、それへのオマージュ、変奏、本歌取りとして難波さんの「箱の家」シリーズがあるわけだ。そしてこのシリーズはいまや四半世紀に及ぶのである。それは建築史的にはどのように位置づけられるだろうか。それはあくまで近代の理想に固執しつづけることで、逆に、時代や社会のそこからのズレを顕在化させるような、そういう批判性を確保する立場である。あるいは矛盾する言い方をすれば、近代批判を展開しながら、しかし帰る場所は近代しかない、そういう世代である。
 以上の意味から、本書の要約を試みるよりも、本書にはなにが書かれていないかを探ったほうが、その特性が際立つ。
 まず「人間」が描かれていない。数カ所で「労働者」の住宅や都市という言葉が散見される。もちろん政治的・イデオロギー的な立場から、20世紀においても労働者/資本家という言葉は使われつづけた。ILO等では戦後もこの用語を使い続ける。しかしこと住宅政策においては、19世紀に膨大に建設されたまさに労働者住宅にかわって、それらではない、より普遍的な市民像を念頭においた、すなわち階級差をなるだけ強調しない方向に進んだ。これが20世紀初頭の公共住宅政策というものであって、その20世紀的な市民像とその生活像を模索するなかで最小限住居の概念も提案されたのである。すなわち事実としての労働者住宅と、理念としての脱労働者住宅像への模索が20世紀住宅の大きなモチベーションであった、が私見である。すると漠然と20世紀都市の労働者たちといわれると歴史認識としてはいいのかという印象を強くする。
 たとえば近代住宅の起源としてよく言及されるのが、イギリスの万博における労働者住宅案である。なるほどそれはnLDKに近く、そうかなと思わせる。しかしこの理屈には根本的な欠陥がある。すなわちそれは思念として表明されたプランであって、現実の労働者住宅ではない。では理念としての理想的労働者住宅の提案は、そもそもなにに基づいていたかということである。事実はシンプルである。いわゆるnLDKの原型は、19世紀前半にはブルジョワの都市住居として成立していた。そこには家族イデオロギー、母性イデオロギーもすでに存在していた。
 すなわち19世紀ブルジョワ都市住宅を簡略化したものをいわゆる労働者たちにあてがおうとしたのであって、そのときに家族イデオロギー、持家政策もセットであった。だから持家政策とは労働者・勤労者の(プチというより)微小ブルジョワ化であり、有資産階級に底上げすることで社会の安定を図るものであった。このあたりは19世紀後半、ヨーロッパはひととおり体験している。
 では「箱の家」の歴史的起源はなんであろうか、そこには誰が住むのであろうか?ちなみに核家族というのは制度なのだろうか。「核家族」とは文化人類学上の概念であり、都市化にともない「核家族化」と呼ばれる現象はあったが、それは法制度で定めた家族形態であったのだろうか。
 同様に「社会」についてもごくわずか言及されるのみである。このあたりは山本理顕の地域社会圏論にまかせている印象である。
 山本さんについても90年代から作品を拝見しており、彼じきじきに案内していただいたことは光栄の極みであった。ただそれにしても、そうした彼のアプローチからすれば、やがてそれが社会学的な問題提起にいたり(すなわち伝統社会を解体して社会を構築した19世紀)、その根底に宗教政策を改めることで世俗と宗教との距離をとることでやがて両者を分離した、やはり19世紀の諸問題に導かれるのはまさに理路整然である。『都市美』などにおいて宗教学者と意見交換をするのもまたごくすんなり演繹できる理論的帰結であって、驚くことでない。宗教学者は、宗教と社会の関係変化ののちに、いかに社会が再編成されるかまでも視野に入れている。社会学者は、社会学が社会という概念を構築したと主張する。とりわけ産業革命、政教関係の変革ののち、社会を再構築しなければならない段階にいたって(西洋だととくに19世紀)、社会学は切実な社会再構築プログラムのために設立されたのであった。
 難波さんはブログのなかで、土居は『建築の聖なるもの』を書くためにカルロ・ギンスブルグ『政治的イコノグラフィーについて』を読んだのか、などとへんなことを書いている。ぼくは2017年にすでに脱稿していたので、そのあとに出版されたものを参照できるわけがない。さらにいえば文化論全体のなかで宗教の重要性に気がつくのに、ギンスブルグに教えてもらうまでもない。そもそもフランスで19世紀以来、宗教と世俗社会の深い葛藤があったというようなことは常識である。日本なら磯前順一や伊達聖伸らによる根底的な宗教学(内部)批判を十数年前からぼくは認識していた。それらはフランス文化論では当たり前のこと、基礎の基礎だから、ぼくは普通に(フツーに)そうしただけである。
 すなわち山本さんも難波さんもあらためて宗教的なものの重要性に気がつくのはご同慶の至りなのであるが、それはそもそも彼らがモダニストであるからである。ちょうど戦後の公団住宅の標準設計では、床の間や神棚など儀礼的なもの、宗教的なものは排除された(それらを復活せよと主張しているのではない)。宗教も象徴もない、脱色された無機質の空間。それがモダンである。そうしたモダンの世界を初期条件としては疑わず、そのなかで生きつつ、批判を展開し、建築するのが、モダンの建築家たちなのである。
 だから彼らはいまさら驚くかのように宗教的なものに触れるのである。そのような構図があるとおもって本書の各論を考えるとひとつの思考パターンがある。すなわち筆者はあくまで戦後日本の空間にいる。もちろんそこに至る歴史的文脈は認識している。ただ書き方が、じつはこうだった、じつはああだったと、演出にもとれるような種明かしとして、遡及的にピックアップされる。文献を編集するためのわかりやすい構図と思えたものは、じつは本質的な存在の構図であったように思える。遡及的であるのはあまり歴史学的な書き方とはいえないが、あくまで実践的な建築家の実践論なのであろう。さらにいえば1940年代日本生まれの建築家の特質がよく理解できる文献である。
 そのような意味で「近代住宅の残像」を生き抜くことが世代的な生き様なのである。それはひとまわり若い世代のぼくなどからすれば、及ぶことのできない次元である。ただそこでの歴史の皮肉なのは、「残像」と思えたものがじつは本質かもしれず、それを生き抜くことが歴史を生き抜くことかもしれない、という逆説である。ぼくはモダンとの距離がありすぎてとても真似できないが、最大限の敬意をはらうこととしよう。
 最後に、これは決して皮肉ではないが、四層構成にはそれなりに普遍性があると思う。最近気に入っているの古代哲学における四大元素(火、風、土、水)とか、パラディオの『建築四書』(基礎理論、私邸、公共建築、古代建築)などは、仮のフレームワークがじつは実効的で普遍性があったなどということになるのではないかと思ったりもする。