市川紘司『天安門広場』2020の感想文

 市川紘司さんから送られてきました。ありがとうございます。
 たいへん充実した力作である。膨大な史料、文献、既往研究を駆使した論考である。すべてのディテールが読みごたえがあり、面白い。ぼくは現在の天安門広場が整備された1950年代に生まれたし、1個人として、文革も、ニクソン大統領・田中角栄総理の訪中も、天安門事件もテレビで目撃してきた。だから本書をそうしたそうした歴史舞台の種明かし的な説明として読めるし、なかなかスリリングである。
 さらに市川さんはそれ以前の中華民国時代を「近代」と呼び、当該地区の状況、整備、事件、祝祭などをことこまかに描いている。それはイデオロギーの覆いをいちど取り外し、ファクトの次元において描写することで、普遍的な都市史、広場史のもとで、天安門広場を語ろうとするものであろう。
 個人的には、ぼくは建築史研究としては専門の西洋をやるのみである。それ以外は読書くらいはするが、研究はしないことしていた(そもそもできない)。それは1980年前後から表明されていたアジア・中国スタディ指向をみて、これがこの先の主流として尊重はするが、自分自身は天邪鬼的にそうではない方向を選んだ結果であった。今はそういうことにはこだわっていない。ただそれは自分の限界を規定している。だからあくまで建築史全般・建築論全般の立場から読んでの、専門外からの感想文にとどめる。学会誌などで書評するならこちらも論文・文献などでいろいろ確認しなければならない。しかしブログではそこまでやらない。だから「感想文」である。
 そういうわけで各論は、赤裸々なファクトとして自分なりのさまざまな興味から楽しんで読む。総論は、中国の歴史や政治的・体制的な状況とてらしての分析と批評はできないので、一般的な建築史、都市史、建築論などの文脈から感想と若干の批判をしてみたい。あいかわらずの土居調はご容赦を。
 それにしても本書は、都市、建築のみならず政治、社会などに関する多様な議論を触発するような、どこを切っても論点を提供するような、重要文献となるであろう。

(1)「革命」をどう位置づけているのだろう?
フランス革命についてもその論争史・研究史なるものがあって、詳細はわすれたが、段階革命論、政治論、経済論などいろりおである。最終的には200周年の1989年前後には、文化としての革命というくくりで、革命文化論がいわれた。ピエール・ノラ『記憶の場』、モナ・オズーフの『革命祭典』、日本なら立川孝一の成果などである。
 市川さんも、北京市内のデモ、祝祭、行列がどの経路でなされるかを示しており、興味深いが、基本的にはオズーフらの路線である。
革命を文化として扱える段階になってやっと、都市や建築も、革命との関連で論じられるのであろう。
 そういうことでいえば市川さんは、ベネディクト・アンダーソン『幻想の共同体』を引用しながら、ソ連共産党は皇帝権力の場所であったクレムリンを拠点に選んだように、中国共産党幹部もまた紫禁城を選んだことを指摘している(pp.025, 240, 313)。市川さんは「まえの所有者が逃げ出してしまった大邸宅の複雑な配電システム」のスイッチを入れ直すというレトリックがお好きなようである。アンダーソンは、空間的表象を喩えとしてつかいながら権力機構の移行の話をしていると思うのだが、本書は、どうも空間についてのベタな話としているようである。
 まず蒋介石は南京に遷都したことにも言及している(p.025)のだが、遷都/非遷都もすでに空間文化論なのだから、そこからいろいろ引き出せないだろうか。たとえば王権は移動するものであった時代、首都はたびたび変更された。イスラムでもそうであった。キリスト教圏でもそうであった。ところが近代こそ、首都が固定された。保守も革新も、首都にこだわり続けた。アンダーソンは無意識のうちに首都の固定化という歴史的プロセスの上にいるようである。ひとつは、そもそも革命なるものが、リセットではなく継承を目指すものであった。理論的には、歴史的必然というメカニズムにより革命は不可避であるというのがイデオロギーであった。だから革命は歴史という共通の基盤のうえに立つのである。革命は、切断ではなく、みずからを歴史化し、正当性を得るのである。つまり切断であると自称する革命が、じつは本質的に、背後に連続性を求めるものであったとしたら、どうであろう。
 この場合、クレムリン紫禁城はなにを意味しているのだろう。場所だろうか?史実などから明らかなように、官僚機構ではないか。官僚は優秀であり行政上の情報を握っている。だから追放などをせずに、組織替えをし、あらたなミッションを与えれば効率的に働く。それが近代であろう。革命がおこる国は、そもそも官僚機構がそれなりに発達しているということもいえそうである。
 ではこういう近代の革命メカニズムは独自なのだろうか?そうでもない。イギリスはムガール王朝の後継者としてインドを統治したし、フランスはオスマン帝国の後継として地中海諸国を支配しようとしたのだが、この構図は中国史ではむしろよく知られた構図であるはずだ。それがソ連ロシア帝国との、中華人民共和国清朝との関係であって、この関係は世界史のなかでかなり広がりがあるのではないだろうか。すると大陸では古代王朝がそのまま続いているという話は、喩えではなく普遍的概念であるということになる。それでは革命とはなんであったか。その理解そのものが更新されなければならない。

(2)「広場」概念を検証しないのだろうか?
 市川さんが前史、「近代」、1911-1948年に集中する正当な理由づけをしているのはよくわかる。それでも1949年の建国から、天安門前は根本的に整備されなおして「天安門広場」となったと記されている(p.244)。このくだりはわかりきっているようで、じつは、ぼくはよく理解できない。
 この理解しにくさは、ぼくにとり、皇居前広場ですでにはじまっている。「皇居前広場」とは通称なのか?公称なのか?法規上のそれなのか?何法が定めるのか?常識的にはそれは通称であり、(どの?)正式には「皇居外苑」であり、都市計画法第11条(都市施設)では北の丸公園日比谷公園と合わせて「東京都市計画公園第5・8・23号中央公園」が正式名称である。もちろん都市計画法上で広場とはなにかは説明されているとはいえ、広場はむしろ広場理念が先行するすこし不思議な存在である。ましてや皇居前広場とは漠然としていう名称である。それを広場としてかたる、独特のあるいは普遍的な意味をもつ広場として語るとはどういうことか。それはむしろ、話者が「広場」概念に汚染されているからである。
 では天安門広場はどうだろう。P.244以降では1949年からのあわただしい建設の経緯がきわめて詳細に記されている。でも、それは通称なのか?公称なのか?法規上のそれなのか?何法が定めるのか?本書の冒頭で「北京皇城正門である天安門の南側に広がる空間(オープンスペース)を指して固有名称的に「天安門広場」と呼び表すこと自体、一九四九年以後に生まれた慣習にほかならない。」(p.008)と書くときに、そもそものこの広場の、通念上の、制度上の、法規上の・・・などなどの定義をもっとくわしくしてほしかった。研究論文としては最低限そうすべきではないか。
 本書は、1949年の天安門広場誕生の前史、「前日譚」を際立たせようとしている。それなのに1949年以降に誕生した天安門広場とその名称を、それ以前のT字路でしかなかった時代にまできわめて大胆に遡及して使っている。このT字路は、明清時代も天安門広場であった。中華民国においても天安門広場であった。などとするのはカテゴリー錯誤であろう。将来の天安門広場、後の天安門広場などともいえよう。しかし常識的にはその時代ごとの一般的な呼称を使うのであろう。そうしない理由はぼくにはよく理解できない。
 そもそも「広場」の語源学的な説明くらいしないのだろうか。
 ぼくはささやかながら広場論を述べたことがある(『言葉と建築』、XIV章「広場」への永劫回帰、1997)。広場そのものは通史的にあるが、「広場」理念はまったく近代的である。それは19世紀歴史学の発展のなかで、古代ギリシアアゴラ、中世都市の市場=広場などが理想化され、近代都市計画での再活用がもとめられるようになった。そのピークがCIAMにおけるギーディオン「都市のコア」論(1952)である。近代建築の核心とおもえたもののベースは、やや古くさい19世紀歴史学なのであった。しかし日本の建築界はいちはやくそれを認識したようであるし、戦後いちはやく丹下健三は広場理念を表明した。さらに日本の国語辞典では、おそらく、『大日本辞林』(1907年)が「広場」初出であり、広場が社会的な集いの場所だという意味をもってするのは『広辞苑』第三版(1983)からである。
 すると世界史的にみて、天安門「広場」とするのが1950年代以降なのはむしろタイムリーである。繰り返すが、ギーディオン「都市のコア」論(1952)、天安門広場整備(1950S)、ついでにマックス・ウェーバー『都市の類型学』(1956)などとである。まったくの同時代諸現象といえよう。ウェーバーは最後にもういちど触れるであろう。
 市川さん自身の理念はきわめて控えめに表明されている。 「禁地の宮廷広場だった広場が開放的な公共空間になった」(p.325)、「オープンネス(公共性)」(p.414)、「空隙(オープンスペース)」(p.415)などとあるように、イデオロギー、制度、料金(入場料なしという意味でフリーな)などあらゆる拘束から自由になった空間。どちらかというと中華民国肯定論であろうか。それをぼくは否定も肯定もしない。ただそういう理念がどういう歴史的経緯から出現するのか、すでに表明された理念のどれに相当するのか、これからどう実現すべきか、検討してほしい。なにか発見があればぜひ聞きたい。

(3)「国民」概念、「人民」概念を検証しないのだろうか?
 侯仁之と呉良鋪は1977年の論文のなかで天安門広場を「人民広場」だと呼んでいる。ぼくはそれに納得する。人民大会堂がそれに面している。なにより中華人民共和国(People’s Republic of China)なのだから。
 しかし本書はこの広場が「国民広場」だとずっといっている。妹尾達彦「国民広場論」(pp.012, 371など)やベネディクト・アンダーソン、エリック・ホブズボームらの国民国家論などを借用したので、それらに引きずられている。ぼくは妹尾達彦をよく知らないが本書から遡及して想像するに、この国民広場論は底が浅そうである。ましてアンダーソンの国民創出説も、それまでの諸説を編集したていどのありきたりの論であるとしか思えない。しかも民主主義的な先進国を念頭においた論であって、世界中のあらゆる状況に適用できるとはかぎらないという印象である。
 ところが市川さんは広場におけるさまざまなイヴェントが「群衆を中国の『国民=人民』へと統合していく」(p.273)などと書き、短絡的に人民は国民だとしている。ぼくは、そうではないと読む。むしろ人民と国民はいかに違うかを考え抜くことに、天安門広場論の可能性があると思うのだ。
 すなわちアンダーソンの粗雑な要約のそれ以前にもっと知っておくべきことはおおい。
 個人的に思い出すこと。かつての同僚の教え子が、研究発表をして、メトロ・マニラの広大なスラム(不法占拠地区)の自助的まち整備のしくみとしてPeople’s Planがあるが、それを住民参加プランなどと訳したので、Peopleは住民ではないでしょ(なにしろ不法占拠だし)、普通英語でPeopleといえば社会の比較的下層の人びとなのですよ、・・・などと愚見を述べたものであった。
 しかしこの話はかなり広がりがある。つまりまさに近代社会、近代国家において「人」はどのように規定されるのであろうかという根本問題である。フランス革命ついでに、かの国の人権宣言、憲法などの規定において、「人」は、「男 homme, man」、「市民 citoyen, citizen」、「フランス人Francais, French」などとさまざまな形で呼ばれていた。もちろんぼくが知る限りではある。しかし現実はもっと錯綜していたであろう。政治学者によれば、普遍的人間(人類)か、フランス領土内の人間なのか、どちらを想定するかということと関連していたらしい。
 ちなみに「人民 people」は、アメリカ的理念においては植民地の人間であった記憶がそうさせるのかもしれない。フランスにおいて「人民 people」とは、階級社会の構造が経済格差として残っていた19世紀における下層の人びとであり、庶民、貧民、細民などにかなり近いし、左派はむしろ積極的に無産階級などと偽悪する対象であった。ちなみに日本にも古くから人民概念はあったが、明治政府は「人民」概念を制度のなかから排除した。
 国民(national)概念について、じつは専門外のぼくはお手上げである。日本国憲法は国籍法により日本国籍を与えられた者が日本国民であるとして、定義をあずけている。そして国籍法はほとんど手続き法である。すると理念をもって国民を定義している制度そのものが空洞ということになる。アンダーソンがいう幻想の共同体とはじつはこういう事態をいうのであって、出生、言語、文化、表象体系などはとってつけた議論にすぎないように思える。
 ともかくも「人民」と「国民」は相反する概念であるというのが一般的な理解である。左派や共産系は「人民」を好む。保守派や自由主義圏は「国民」をとる。これが定式であった。だから中華民国時代に「国民」概念がすこし登場するのは、どこかからの入れ知恵だろうか。
 だから1950年代に天安門広場が整備されたのち、当事者たちはそれを「人民広場」と呼びたがるのはしごくまっとうである。するとなにゆえ、どういう政治的背景から、市川さんは人民=国民などとするのであろうか。


あとは各論的な興味である。
(4)公園化について
1930年ころから公園化政策(p. 157)がなされるが、これはすこしまえの欧米におけるパークアベニュー、田園都市、グリーンベルトなどの模索の、中国的帰結なのだろうか。華南圭のパリ留学(p. 166)はぼく的には興味があるが、だれにエンジニアリングをならったのだろうか。造園家フォレスティエがパリに街路樹を植えていた時代である。「路」としたとき、漢語でありながら、なにかフランス語のテクニカルタームを念頭においても不思議はない。しかも植樹をするのだから。天安門前もまた、「路」として認識していた。張武の「公園化された都市」(p.193)も同様だし、アーリントンが「中華路」を「並木道」と表現するのも(p.222)欧米的視線を素直に投影した結果であろう。

(5)個人崇拝
孫文が「国父」として扱われた(p.208)とあるが、アメリカや日本と同様なのであろうか。

(6)博物館化
故宮の博物館化(p.186)も西洋的という印象なのだが。

(7)最近の権力空間論は参照しないのだろうか?
 権力空間論としては政治学などの原武史、羽田正、御厨貴らが際立っている。おかげで建築史研究者の影が薄くなっている。天安門広場においては、穏便な国民広場などという次元ではなく、むしろ剥き出しの権力表出なのではないか。

(8)まとめ:広場論としてなにが欠けているか?
 広場論の近代における構図はわりとシンプルである。まずヘーゲルにおける世界史の構図。古代東洋的、古代ギリシア的、ゲルマン的の3段階をへて、人間の自由は拡大されてきた。19世紀後半はその自由の表象として、人びとが集会する広場をみる。
 ハンナ・アレントの論考は小さな広場論をはるかに凌駕はするが、全体主義の起源論や、人間の条件論などで基礎としているのは古典古代のポリスとその社会(人間)である。そしてマックス・ウェーバーの『都市の類型学』(1956)は、専制的な古代アジア的都市、都市共同体があるとみなせる古典古代的都市(ポリス)、さらに自律的特権が与えられたゲルマン的都市と、区別するのである。
 あらためてCIAMを代表するギーディオン『都市のコア』との同時代性はいうまでもない。天安門広場の誕生もまさに同時期である。どこかで連動しないほうが不思議である。
 こういう構図を念頭において仮説を述べたい。
 以上を念頭において素直に推論すれば、天安門広場は、こうした世界的な広場理念の普及のなかで古代東洋の専制制度を表象するものであり、体制としては東側である。だから「人民」を強調する。アンダーソンらがのちに指摘する国民国家論などは古典的ポリスを理想化するものであり、体制としては西側である。だから「国民」を強調する。
 ここまでは素直である。しかし20世紀が終わった今、その逆説を考えてみよう。すなわち資本主義とは人間ではない資本による専制を許すものであった。するとそこにポリス的自由とその表象として広場を考えるのは欺瞞であり、真実の隠蔽にすぎない。そもそも20世紀において広場は批判的な意味をもたらすものとして提示されたのであって、せいぜい鎮痛剤にすぎない。そしてたいした実例も生み出していない。
 それにたいして天安門広場こそ東洋的専制という本音を、人民という言葉ですこし脚色はしているが、むしろ率直に表現しているのではないか。21世紀になり、世界は民主的になるどころか、有力国家において独裁者的な国家元首がつぎつぎと出現している。それを見るにつけ、天安門広場こそ21世紀を預言していたのではないか。皮肉な逆説でもある。
 そしてこの仮説(妄想?)にたいしてどのような感想をもつのだろうか?