後藤武『ファーンズワース邸』

ヘブンリーハウスという叢書の6巻目らしいが、送っていただいたので、一読した。

残念ながら、いちどは仕事をご一緒したはずの著者を、あまりよく存じ上げていないが、難しい内容をわかりやすく書こうという配慮がなされており、肩の力がよくぬけた、大人の書き物となっている。

ぼくじしんがワンズワース邸を訪れたのはちょうど2000年のことで、それなりの感銘はあったが、やはり一晩はすごして、夜、ここにたたずみ、しぜんと心のなかからなにが表出してくるか、それを待たないことにはほんとうの受容はできないであろうと思った。とはいえ現物をみるとたいがいまず幻滅する(感銘に反転することもある)ぼくの性分は、あまり得なものではない。週末住宅にきてまで、高尚なことを考えつづけるのですね、という感じである。まあひとりになったからこそ高尚になる(世間は俗だから)、という反論も可能ではあろう。

論旨はぼくなりに理解できるつもりで、ライプニッツにはじまりライプニッツに終わるのだから、「モナド」としてのファンズワース邸である。徹底して孤であり「ひとつ」でありながら、世界を内包する。こうした哲学はミースなら文化的教養として身につけていたはずで、それを建築として昇華しようとおもっていても不思議ではない、というようなことが書かれている。それはダス・マンでしなかいことが、近代人の絶望ではなく、希望に反転するのではないか、という逆説的なものかもしれない。モナドには窓がない。そう壁がすべて透明になったら窓もない。しかしまさに窓がないからこそ、世界はこの「ひとつ」に浸透し、そこを満たす。

ただそうすると、ユニバーサルスペースの日本的解釈もとりたてて必要というものでもないのかもしれない。ただライプニッツにならって単子のなかに、いかに世界が襞となってたたみこまれるかということであれば、著者が本書でそうしているように、ミースの伝記だけでなく、さまざまな思想的、芸術的な連関を書き込むことで、空疎に見えるかもしれない空間を充填することは、理路整然とし、対象を分析するにふさわしい方法論である。

そこからはまさに建築論の問題なのだが、住宅紹介シリーズなので哲学者と建築家の具体的リンクを書かねばならないとすると、証拠はそうはないであろう。そういうときは著者自身の超越的視点をもって、これから構築する論理のなかに、哲学者や建築家を編入していくべきなのであろう。そうすると20世紀という枠組をこえた、より普遍的な、建築の課題ということになる。