江本弘『歴史の建設』東京大学出版会2019

 ずいぶんまえにUTPの神部さんからいただいた(ありがとうございます)が、感想をつい書きそびれていた。

 若手建築史家の意欲作である。ゴシックリバイバルの巨人ラスキンアメリカにいかに受容され、批判され、再評価されてきたかを軸にして、アメリカ自身が自分の国の建築史をいかに描こうとしてきたかが述べられている。学問史、論壇史としても読める。
 日本人研究者としては格段に新鮮なテーマ設定であり、おおくの原著を読み、解釈し、要約し、引用してゆくことを基礎作業としている。そのためややもすると文章は硬くごつごつした無骨な印象であるが、それもパイオニアの苦労というものも感じられ、新鮮である。

 さて読者としての興味は、まさにアメリカが対象になっていることである。いやアメリカ的なものの解釈が探求されているといってもいいだろう。かつてパリの建築講演会で碩学フランソワ・ロワイエさえも20世紀はアメリカの世紀だといっていたように、経済、文化、芸術などと同様にヨーロッパの建築もまた1930年代以降、アメリカに大移動したようなものであった。ヨーロッパはそれをみずからの凋落としてとらえたのだが、日本人は困ったパースペクティブの混乱をきたしてしまった。すなわちアメリカは世界性を内包しているとはいえ、ローカルなアメリカとインターナショナルなそれは区別すべきとは知ってはいても、アメリカ=世界という認識がかたまってしまった。その構図のうえで、インターナショナルスタイル、バナキュラー、ポストモダンコンパクトシティ、クリエイティブシティなどを最初から普遍的な世界的潮流としてうけとめてしまう。

 この傾向は1970年代の近代批判において、相対化されるどころか、ますます強くなってしまった。なにしろディスカバージャパンの原型はディスカバーアメリカであるように、近代批判の思想的源泉さえアメリカなのである。

 21世紀になりそろそろ日本も、アメリカを否定することはないが、すくなくとも相対化して、ローカルとしてのアメリカと、世界としてのそれを区別するくらいの理解はあってもいいであろう。『歴史の建設』とはアメリカ固有の時の流れのことであり、それはいわば「アメリカ的なもの」なのである。それは1930年代において「日本的なもの」が議論されたものと相似であろう。だから本書は、日本のビッグブラザーとして日本にとり都合のいいアメリカではなく、自身にとってのアメリカへの最初のアプローチであるといえる。
 面白い細部をあげてみると、アメリカ人留学生のエコール・デ・ボザール入学者数の変遷(p.82)は、ぼくが「建築雑誌」の留学史特集で指摘したこととおなじ興味で面白かった。機関車批判(p.164)は、ローマ教皇が第一次バチカン公会議において機関車など近代文明そのものを否定したのと同時代であるのは重要であり、19世紀における宗教的情熱と建築の相関性を考えるうえで重要であろう。社会学のシカゴ派からラスキン社会主義的側面が批判されたこと(p.225)を考えるべきなのは、まさにシカゴ派のアメリカ史における重要性と相関しているだろう。反模倣主義、創造性指向(p.256)はたとえばアメリカの大学教育が板書主義からディベート中心主義に移行したのと同時期、平行現象であろう。そのほか超越主義、神智学、有機体主義との関連もそのとおりであろう。
 全体としては建築論文、テキストからの要約と引用のためにほとんどエネルギーが使われており、上記の各アイテムがとうぜんすんなりと収まるべき背景についての説明がまだまだ不足しているような印象である。もちろんそれはパイオニアの苦労なのであろう。研究対象と格闘しているかのような現状から、より幅をつけて、俯瞰的な立場にたてば、建築史観をまったく更新させるような読みごたえがあるものができるであろう。

 書物としての構成でいえば、ぼくには不満もある(が伸びしろであろう)。アメリカ人によるラスキン解釈がヒッチコックの『インターナショナルスタイル』に流れ込んでいるとして、読者が知りたいのはそこから先である。そしてラスキン再評価/グリーノウ発掘で締めくくりたいのは、グリーノウ発掘(の発見)が著者の成果であるからだろう。しかしアメリカ人先駆者がまさに先駆者として発見されたのは、ラスキン的枠組みを遡及的に適用したからなのだろう、くらいは歴史をやっていれば容易に想定できるのだが、どうだろう。いやその「遡及的適用」がまさに「歴史の建設」なのだといわれれば、読者として納得もしよう。ただそのほかにも成果をもたらす論じ方もあるのではないかと思う。