東海大学にて

大学をハシゴするのも、それなりに見識をあたえてくれる。

ここは山田守のY字プラン校舎も有名なのだが、キャンパス全体に戦後モダンの香りがただよう。RCの建物は、より軽快な表情である。そんななかでカーネギー・ホールもどきもあり、ロシア構成派風の赤い鉄塔もあり、また螺旋スロープのもと駐車場もあり、それらは目を楽しませる。

ただ機能的にはY字プランは人を迷わせる。人間は直交座標のほうが本能にあっている。プランは機能主義的に考えられたとはいえ、きわめて観念的である。ただその具象化された観念をリスペクトするつもりはある。

キャンパス敷地は、私鉄沿線の丘陵地帯であり、この点ではひとつの典型例である。ただ町もそれなりに形成され、大学とたがいに支え合うように、全体として成熟している。学会のために、近隣商店街(?)が屋台を出していた。これも地域と大学の共同ではある。

大学を経営するとはどういうことかは、長くいると感じはつかめてくる。現在、日本では国立大学のいわゆる人社系学部の再編がいわれている。これも日本的構図であり、本省は明確なプランが描けないので、各大学に自主的にやらせ、各大学の執行部もはっきりした方針があるのではないので、各学部にまかせ、・・・・でどこに主体があるのかよくわからない。そこで、はっきりした(もちろん有効な)ビジョンをえがいたところが勝ちなのだが、そういう構図もわからないで右往左往する大学人がいても、そうは責められないのが人情というものである。

経営手腕がある私大が、今の瞬間では安定している。しかし数年後からは18歳人口がふたたび減少しはじめるので、大学はふたたび激動の時代になる。

日本では国公立と私大を分類するのが普通だが、じっさいは宗教系というくくりが意味をなしているような気がする。すでに大学淘汰の時期にはいってはいるが、いろいろなキャンパスを訪れた皮膚感覚では、日本における宗教系大学にはなにかアイデンティティの強さを感じる。このカテゴリーはしぶとく生き残りそうであると、確信もなく、予感する。

日本人の70%は無宗教を自認しており、近代化したときに、あまりに忠実に西洋の政教分離原則を受け入れたからとされるようである。しかし宗教系大学は、数も多く、イメージもよいし、ブランド化しているところもある。宗派の目的は布教であるが、この「教」を、教育全般にわざと誤解すると、そもそものミッションを果たしているようにもみえる。日本という国の、不思議な政教関係である。