福田晴虔著『ブルネッレスキ』『アルベルティ』『ブラマンテ』

(口上。これは学会誌に発表した書評の再録である。福田先生からもメールをいただいた。贔屓の引き倒しの部分については陳謝いたします。)

  「私は自分自身を探究した」(ヘラクレイトス、断片一〇一)  

 福田晴虔先生の三部作『ブルネッレスキ』『アルベルティ』『ブラマンテ』は、アルガン、ブルスキら代表的な先行研究を俯瞰したうえでなされた本格的で重厚な論考であるとともに、たんにモノグラフの連作であるにとどまらず、ルネサンス建築の核心であり、著者の建築にかんする雄大なビジョンを示している。それにたいし学生時代に『パッラーディオ:世界の建築家』(鹿島出版会、一九七九年)を読みその深さに圧倒された評者にとって、この碩学と同じ土俵で論を交差させるなどということは永遠に訪れえない状況であるはずであった。はたまたラスキンが日本語で論考しているがごとき翻訳『ヴェネツィアの石』(第1~第3巻、中央公論美術出版、一九九四、一九九五、一九九六年)におよんでは。大先輩が本格派のご研究をなさるからこそ、それを隠れ蓑として、あわれな後輩は身の丈にあったそこそこの研究テーマでお茶を濁せるはずであった。それが評者というこの与えられた役割のなかで、偉大な碩学にどう対峙すべきであろうか。

 そのためには長い助走をするしかない。高度差、距離をすこしでも縮めるために、精一杯の跳躍をする。そのプロセスを誠実に報告するのみである。その率直さのあらわれとして申し上げたいのは、そもそも先生の文章は、表意しか読もうとしない評者にはきわめて理解しづらいのであり、ちょうどルネサンス芸術がエンブレムやシンボルの重層的な意味づけで表意も含意も真意もすべて渾沌としていることと同じような気がする。ましてや評者とはちがって、先生がときに自虐的な自己演出をするときに、どこまで信じていいかは、敬意を表したい評者にとっては難しい。だから機械的に、文字どおりに受けとるしかない。

 たとえば故稲垣榮三先生のアドバイスによりヴィクトリア朝の建築家プロフェッションの研究をされたということである(『アルベルティ』あとがき)。とうぜんイギリスの一九世紀を研究すれば、そこから遡及的に、一八世紀のパラディアニズム、一六世紀のパラディオそのものにむかうのは理路整然と論理的であるし、それらを貫通する背骨として一九世紀ビクトリア朝という背景のなかで中世とイタリアの美術を批評していたラスキン歴史観に、そして個別ではなく普遍的テーマとしての都市ヴェネツィアに注目するのもそうである。

 そこでこの逸話が本質的な事実なのか、自律を他律と装う演出なのか、はたまた評者はその実相を語っていただけるにふさわしい人間なのか、はなはだこころもとないのである。そうであるとしても、それを、ちょうど透視図法における消失点のような、ひとつの虚構の定点とすると、いろいろなことは整合性をもって整理整頓される。

 つまりこの定点から再構成すると、稲垣先生が『日本の近代建築』(丸善、一九五九)において、分離派建築会をもって、たびたび貴族主義的で差別的と揶揄される例の近代的「自我」の誕生としたことについて、読者としてかんぜんな誤解をしていたことに、評者は気づいた。つまりそのマニフェストのなかに、大正人格主義の反響があり、そこに近代的自我の萌芽を発見し、それが成長してウィトルウィウス研究や茶室研究となったという、文献そのものの構成をまにうけていた。しかしそれは逆方向に解釈しなければならなかった。事実は逆方向である。稲垣先生は、茶室研究において堀口捨己を継承するなかで、まずこの成熟した茶室研究者にして建築家のなかにその近代的自我やらを発見し、つぎにそこから遡及して、分離派を説明したのである。このように逆方向に考えると、評者にとって、いろいろなことが氷解する。

 余談であるが、評者が卒業論文作成のために当時は六本木にあった生産技術研究所の故村松貞次郎先生の研究室の資料をお借りしたおり、コピー代を支払いますという申し出にたいし、研究費で出すというお答えで寛容していただいたのもつよく記憶に残っている。村松先生は、評者の分離派理解をお聞きになったのち、分離派の建築家といっても当時は二十歳そこそこで、若い学生の課外活動のようなものだよと指摘された。それも一理あるとは思った。ただそこに稲垣的と村松的の根本的な対比、知的かつ自覚的な創造者かあるいは誠実なる技術者かという対比、があることに気づいたのはずっと後のことであった。

 主流から疎外されていたとされる堀口は、建築学会賞を受賞するなど、そうともいえない面もある。しかし磯崎新は「様式の併立」(『昭和住宅史』、「新建築」一九七七年増刊号、九六~一〇三頁)などで、建築家としての再評価をする。つまりいわゆる構造派なるものが近代都市を構築してゆくなかで、周辺的存在の堀口は、茶室を「非都市的なもの」とし、なおかつそれまでは金閣寺平等院鳳凰堂などが日本建築を代表していた状況のなかで、茶室こそ日本的にしてモダンであるというように、建築の価値ヒエラルキーを転倒させようとした。

 大先輩たちが堀口捨己への圧倒的共感を共有していたことは、評者としては、背中ごしに感じるていどではある。しかし稲垣先生は磯崎新との対談(磯崎新『建築の一九三〇年代』鹿島出版会、一九七八年、一一九~一五二頁「稲垣榮三---堀口捨己」)のなかで「堀口さんの日本のデザインにかんする仕事は、リバイバルだと考えていいと思いますけれどもね。リバイバルというのは、十九世紀のヨーロッパのばあいがそうであるように、たいへん知的な仕事です。知識と経験を積み重ねないとオーソドックスができない」(同一三一頁)と指摘しているのは重要である。

 ここでも評者はかつて、稲垣先生はまず西洋建築史の枠組みをよく理解し、リバイバリズムの本質をわきまえたうえで、つぎにそれを堀口捨己に適用したのだと思っていた。しかし、ここでも、事実は逆方向なのである。彼は、まず知的であり知識と経験を蓄積した堀口捨己をもって、典型的な建築家像のひとつの例とみなし、それを西洋に逆応用していたのだ。「ヨーロッパの十九世紀というのは、堀口さん的な人が輩出していたのだろうね」(同一四五頁)と述べているのは、そのように理解しなければならない。しかも、そしてその相でみられたヴィクトリアン理解は正鵠を射ているのである。

 稲垣先生にとって、リバイバリズムでないものは、「あらゆる様式が建築家の手中にある」という意味での「ピクチャレスク」である(同一四五頁)。だからこれは評者なりにいいかえれば、モダンと折衷主義の対比である。モダンは、原理を知的かつ体系的にスタディし、さらにそこに自分の内面を一体化する。折衷主義は、さまざまな様式から等距離であろうとし、原理を守ることで自我の統一性をたもつことには無頓着である。だから稲垣先生は「過去のなかからひとつ選択するということ、要するに好ききらいをはっきりさせるということがリバイバリズムの基調だろうとぼくは思う。堀口さんはそういう意味でつねに選択している」(同一四五頁)と指摘するのである。

 おそらく近代批判者たちは、このリバイバリズムと折衷主義を、混同していた。稲垣先生のみがそれを区別していた。それは堀口捨己という、統一された近代的自我の所有者を指標とすることで、それが可能であったのである。そこでは自我の統一ということは、方法論の一貫性ともいいかえられる。そして方法論の一貫性とは、建築のそれであり、建築性とさえいえる。建築家とはなにか、がそのまま建築とはなにか、という問いかけになってゆくのである。

 だから稲垣先生が福田先生に、ヴィクトリア時代の職能についての研究をアドバイスされたとき、建築と建築家は即応して成立するという観点がすでに含まれていたのだ。もちろん、畏れ多くも指摘させていただければ、おそらく稲垣先生は堀口捨己をとおして西洋を理解していたとしても、そのフィルターが有効であったのは、堀口自身がまさに普遍的建築家像を、たとえ部分的にせよ、体現していたからであるというようにしか、いいようがない。稲垣先生は、ときに西洋建築の矜持というあいまいな表現で自身は回避しながら、その本格的な研究を弟子に委ねたのであろう。このように、出発点では西洋モダンの模倣でしなかった分離派建築会的なるもの、それを中心にすえた史観を、西洋にむけて、逆方向に、投影しているのである。

 すなわち分離派建築会を閾として仮定する日本近代建築史の大問題が、じつはここで福田先生に手渡されていたとしか解釈しようがない。そうでなければ福田先生の問題意識、すなわちアルベルティ以前の建築語りは「建築の外からのある種の超越的な力の働きかけによって成就したものとして建築を位置づけているのであって、建築技術の内側から発する力を掴みだしたものではなかった」(『アルベルティ』五頁)を、どう理解すればよいのだろうか。建築をその内部から語る。この問いに答えるのはきわめて難しい。そもそも問いそのものを理解することがすでに困難であるからだ。それは建築家が近代的自我をもつことが、言葉は理解できても、その本当の意味はじつはよくわからないことと、まったく同じなのだ。

 アルベルティは古典的権威に追随するのではなく、古典そのものを一種のフィクションとして創造しようとしたのであり、「絵画や彫刻とは性質を異にするまさに『建築』」(同九頁)の概念をつくろうとしたのであり、この建築は仮面(同一三〇頁、一六〇頁)、装置(同一三五頁)、演劇(同二三六頁)などさまざまな言葉にいいかえられてゆく。それは福田先生の概念の輪廻転生とでもいいうるものである。

 そうしたなかでアルベルティの箴言「都市はある種の最大邸宅であり、反対に邸宅自体はある種の最小都市である」(相川浩訳『レオン・バティッスタ・アルベルティ 建築論』中央公論美術出版、一九八二年、二六頁)は、ヒエラルキーの上下は反転しうるものである、あるいは異なるふたつの要素は相互に内包しあうという命題におきかえれば、文化的に連続していようがいまいが、ことなる文脈に移動しようが、普遍的なものであることは容易に理解されよう。だとすれば、それまで旦那芸の世界のものであった茶室を、西洋モダニズム美学の観点から再評価し、評価ヒエラルキーの上位にランクアップさせた堀口捨己は、茶室は建築である、と主張したことになる。しかしそのモダニズム美学は近代建築において普遍的に作動すべきものであるように命題が展開してゆくと、こんどは建築は茶室である、というパースペクティブの逆転が可能となる。このことを念頭において太田博太郎先生の「日本建築の特質」(『増補新版 日本建築史序説』(彰国社、一九六九年、一~四〇頁)、初出は『日本の建築』)を再読すると、そのように読める。結果的にかつ総合的に、茶室は建築である、建築は茶室である、という概念枠組みを設定したうえであると、これらの文献は容易に理解できるものとなってゆく。

 それとまったくおなじように劇場は都市であり都市は劇場である、あるいは劇場は建築であり建築は劇場である、という命題コンプレクスが、『パッラーディオ』におけるテアトロ・オリンピコ分析、『建築と劇場』(中央公論美術出版、一九九一年)、『アルベルティ』における舞台装置論(一一頁)、『ブラマンテ』における建築家肩書論(一四四頁)などに一貫しているのは、容易に読み取れる。だから「ウロボロス」とは、大蛇が自らの尾を飲み込んでいるという構図のなかに、飲み込む主体と、飲み込まれる客体がじつは同一体であるという「構造」が重要なのである。都市のなかに劇場建築が建設されることで、都市は劇場を飲み込むが、その劇場は書き割りの町並み表象により都市を飲み込む。

 あるいはそれとおなじく、人間の自己意識もまた、見る主体と見られる客体にみずからを二重化することで、成立する(たとえばメルロ=ポンティの知覚論)。だから評者たちが、一貫的視野をもとうとするなら、稲垣先生の指摘する近代的自我とはまさにこのように二重化された主体であろう。いやここでも反転させて、二重化されたからこそ主体となると言い換えれば、よりよく理解できよう。そしてこれはひとつのモデルである。建築家が近代的自我として二重化するように、建築もまた二重化の構造を内包するとき、自律的な建築となるのである。

 だから内部から成立する建築とは、こうした二重化の構造があるということなのであり、その二重化を支える仕組みとして鏡像(『ブルッネレスキ』六三頁)などがある。しかし外在的な支柱は一貫して否定される。透視図法の適用によりブルネレスキの建築は成立しているというアルガン説は大げさであり(同六五頁)、ブルネレスキによる建築探究はネオ=プラトン主義や人文主義とは無縁であり(同一二三頁)、人文主義は建築を発見しなかったのである(同二一三頁)。アルベルティを語るにウィトカウアのハルモニア論やピタゴラス影響説は不要であり(『アルベルティ』一〇六頁)、その建築書は「仮面」として記述されたのであり(同一三〇~一三一頁)、外からの意味づけは避けられたのであり(同二九二頁)、ブラマンテは建築オーダーの外的説明を排除してユニバーサルな建築言語としたのであり(『ブラマンテ』一五三頁)であり、オーダーや透視図法についての二〇世紀的美術史学の固定概念は有効ではなく(同一六四頁)、ブラマンテはヴァザーリ的マニエラは使用せず、いわゆる古典主義には無頓着なのであり、自己同型の転写によりオープンな系をつくったのである(同二三一、二三二、二三六頁)。

 建築を内部から支えるとは、このように人間的自我の二重構造と同じようなものを、建築もまた内包するということである。想像力を飛翔させれば、このあらたな建築/人間アナロジーは、それこそルネサンスの神人同型説や、ベルフリン的な建築心理学、あるいはヴォリンガ的な感情移入論などと似た発想なのかもしれない。観念の二重化はそれ自身の歴史をもって、連綿と続いているかのようだ。とりあえずは、未熟な後輩である評者にとっては、稲垣先生と福田先生の壮大な共同作業のようなものと思えるのであり、建築家の近代的職能と自我という課題は、いちどこの二重構造を下敷きにして、福田先生においては劇場建築論を軸にすえた、ルネサンスを場とする多様な建築論へと展開してゆくようなのであり、偉大なるラスキンの『ヴェネツィアの石』でさえこの大構図のなかでは周辺的な部分であるかのようである。

 『パッラーディオ』(前出)では、福田先生自身がことわっているように、建築家モノグラフを生い立ちからではなく、テアトロ・オリンピコの分析からはじめられている。しかしそのことによって、先生の研究史における記念碑的部分となっている。ここですでに都市と劇場のウロボロス的循環が指摘される(同二六~二七、三三頁)。当時のノブレス・オブリジュを自覚した文化人にとっての「場の理想」(同二一頁)であり、このような都市/劇場複合体は、そうある社会、あるべき社会をなんらかのかたちで反映している。その延長に理想都市論があるのであろう。

 一五世紀から一六世紀への変化が、「背景(スカエナ)」(同二四頁)、「フロンス・スカエナエ」あるいは透視図法(パースペクティヴ)からプロスペッティヴァ(「立体的書割」、同一二頁)へというものである。この転換をなしたのがブラマンテであり(同二八、三四頁)、彼は初期ルネサンスの透視図法的な建築と劇場の関係づけかたを、フロンス・スカエナエをもちこむことで「シェノグラフィカ的(書割的)」に克服し、それがペルッツィやセルリオにおけるプロスペッティヴァ(立体的書割)となる(同三四頁)。そうでありながら、このパラディオの劇場がこのながれに位置づけにくい特殊なものであるというおおまかな指摘である。

 ここですでに、装置、劇場と都市、古典といった言葉の意味を点検し再解釈してゆくことで、のちの論点はかなり先取りされている。さらにウィトカウア的ネオプラトン主義的理解への批判(同一八〇、二〇八、二四六頁)、ゼードルマイヤ的新古典主義的な理解への批判(同二〇四頁)という点も、外部性において批判されている。

 「獅子の建築――アルベルティ試論」(『新建築学大系6 建築造形論』彰国社、一九八五年、四一~八二頁)は、アルベルティの『建築論』を、理論書でも技術書でもなく文学として読まねばならないという指摘である。つまり真実を追究するための作文ではなく「古典の形式に範をとる」ことそのもののなかに、書かれた内容そのものではなく論述の姿勢としかたのなかに、意味がある。さらに先生は、アルベルティが透視図法にまったく触れていない点を重要視する。それはやがて都市がまったく劇場化してしまう趨勢のなかでの、最大限の批判的身振りであった。作品においては、顔(絵画性)と装置性の使い分けになってあらわれる。

 『建築と劇場』(前出)という記念碑的著作もまた、劇場こそ西洋建築の空間的イメージの源泉ではなかったかという問題提起からはじまり、バロック新古典主義などといった確立された様式概念でさえ不十分であることが指摘され、その延長線上に近代建築そのものが批判的な俎上にのせられる(同四~七頁)。そのなかで一八世紀の劇場建築が、「イマジナルな空間創出のメカニズム」としての「古典性」(同二四頁)、ミリツィアが想定しロッシが依拠しようとした「負性」、「非本来性」(同二六七、二七〇~二七一頁)が再評価される。こうした枠組みの出発点として、「透視図法の発見と舞台背景への応用」(同一二頁~)が位置づけられなおされる。しかし「プロスペッティヴァ」の語をどのように解釈すべきかは若干の問題が残っており」(同一七頁)という問題は、そのままであるように思えるが、評者には問題の積み残しのように思える。

 『ブルネッレスキ』では、まず純粋建築技術者としてクーポラ建設にとりくむ建築家の姿が紹介され、つぎにアルガン説、すなわちブルネレスキが透視図法の発見者であるとする説が、相対化されている。「透視図法は建築家にとっては、空間の幾何学の中の一つの特殊解であって、透視図法自体が空間組織化のユニヴァーサルな手段となるわけではない」(同六六頁)のであり、透視図法が建築にとって重要であるとしても、それは視覚認識が変革したという文脈ではなく、建築を都市的文脈で総合的にみるという可能性を示したからである、と指摘する。すなわちここでも建築を内的なもので支えるという視線が貫通している。

 建築への外部的正統化というさまざまな手法は、ふたたび批判されてゆく。ブルネレスキは、前ルネサンスであった、古典主義といっても厳密にはそうでない、という二〇世紀の代表的な通説にたいする批判。ネオプラトニズムの視点からの分析にたいする批判。ルネサンスの建築家たちが「デコルム」という、社会的体面を建築表現において重視するという理論を重要視したという歴史観にたいし、ブルネレスキはそうではなかったという指摘などがなされる。

 『アルベルティ』の序論(「建築」を語ること)では、『建築論』を透明で首尾一貫したいわゆる建築理論書として読んではいけないこと、当時のアルベルティの知的世界そのもののなかに位置づけられねばならない文学書としかいいようのないものであることが、ふたたび強調される。そしてローマ訪問、建築プロジェクトなどさまざまな局面が紹介されるが、評者の好みからすれば、ユートピアならぬディストピア的な「僭主の都市」論を、アルベルティのローマ介入にみて、さらにはそれらを解明できない一九世紀的様式史観がいかに表層的で無能であるかの指摘(同二〇五頁)は圧巻であり、評者には声を震わしているかに聞こえる。さらにはウルビノの理想都市の図によせて、シャステルやクラウトハイマを紹介しつつも、そこに都市と劇場の、政治を媒介にした関係を慎重によみとろうとするのは(同二三三~二三九頁)、本書の白眉である。そして「Ⅹ.建築家像を求めて」は、稲垣先生が与えた課題への回答のようにも読める。「かくてアルベルティ的建築家像は、一種の悲劇的な(見方によっては喜劇的な)相貌を帯びることとなる。自らは絶えず自虐的な自己否定(一人相撲)を繰り返しつつ、その作品を社会の中に定着させるためには、当の社会の外側に身を置くアウトサイダー的な永遠の批評者を装わなければならないのである」(同三二二頁)とは、近代的自我の二重性そのものの意識ではないかと、評者には思えてしまう。そのような悲劇性を、たとえば稲垣先生は堀口捨己を見つめつつ感じていたのだろうか。

 そして『ブラマンテ』は、アウトサイダー的アルベルティ像をそれ以上探究するのではなく、よりソフトに着地させるために「『ユニバーサル』かつ権威的な言語体系」(同五、一五三、二七七頁)をもとめたのであって、それを理解するためにヴァザーリ的様式概念は通用しないし(同二三一頁)、ましてやブルスキのように建築オーダー論や透視図法に拘束された二〇世紀美術史学の固定観念に囚われた目でみてはいけない(同一六四頁、注三四)のであった。ただしブラマンテについては、自己同型の転写によりオープンな系をつくるという希望的な洞察が述べられ(同二三六頁)、透視図法派と大理石派の葛藤があったという構図(同三〇八頁)、そして「劇場的空間効果」の新傾向に言及があり(同三二五頁)、さまざまな局面への言及があるものの、ブラマンテの死をもって「建築技術の内的発展という視点だけでは『建築家』という存在を規定し得なくなったとすべきであろう」(同三三三頁)とされる。ここからさきは『劇場と建築』に接続され、円環が閉じられるのかもしれない。あるいはヴィクトリア朝的建築家像はなんであったかという振り出しに戻るかもしれない。それをもっていかにも先生好みのウロボロスの円環となるというべきか。

 まとめにはほど遠いとはいえ、最後になん点か指摘させていただく。

 まず評者個人の研究にとってのご示唆としては、建築オーダーごときは体系のための体系であって、どのていど建築の核心であったか、というメッセージが通奏低音のようにとどく。たいへんごもっともである。評者自身の著書は、体系の不可能性を指摘させていただいたという、まさにそういう結論であり、御仮説をおくれて証明していたようなものである。

 つぎに、代表的な先行研究をも批判的に受容したうえでの高度な論考であるとはいえ、その予備作業としてなされた分析のなかに今後の可能性があるのではないか。たとえばひところさかんに研究対象となった透視図法すなわち「パースペクティブ」も、パノフスキー理論はまだ問題の近代的な再定位にすぎず、ユベール・ダミッシュをもってしても、その全貌があきらかになったともいえそうにない。はたまた「立体書割」と訳されたプロスペッティヴァもそれだけではないだろうし、さらにスカエナ、スカエナグラフィカ、シェノグラフィカなどの意味するところは歴史的に変遷し、劇場論をはるかに超える多分野にまたがり、重層的に意味も重なるなど、濃厚なる迷路といった遠望である。若干の語彙学ではまだ入口にすぎない。さらに劇場/都市はもっともだとして、それが世界なのか、世界性とはなにか、が次の課題である。批判を申し上げているのではない。ただ福田先生が後進たちのために心優しくも残しておいていただいた部分であるとして受けとっておきたい。

 建築が自律的なものであってほしいという願いはナイーブかもしれない。しかし福田先生から出発し、故稲垣先生を経由して、堀口捨己や分離派建築会へと遡及してゆく道筋は、けっしてメタフォリカルにとどまらない実体である。近代的自我なるものもまたメタファーではない。近代的自我の所有者だけが、他者の自我を発見できる。その外側は心なき演算の世界である。二一世紀はそのような一元的世界になるのだろうか。しかし自我とは二重化さらには多層化である。ウィトカウアやワールブルク学派の学者たち、クラウトハイマ、アッカーマン、などを批判し相対化し、むしろガリンやタフリらに傾聴することは、いわばアングロ=サクソン的普遍主義の枠組みから、イタリア・ルネサンスという対象を解放し、固有のイタリア的枠組みに戻すとともに、その過程において、福田先生的というか近代日本的というか、また別のフィルターをとおそうとすることである。歴史的対象はなんであれ重層的に構成され再構成されてゆくものである。たとえば、そもそも古典古代をフィクショナルに生き直そうとしたのがパラディオであるなら、その行き直しそのものを生き直そうとしたのがバーリントン卿であり、この多重の生き直しをさらにアメリカの一九世紀ピューリタン的建築は反復し、コーリン・ロウはそれを知的に復唱し、フィリップ・ジョンソンのニューカナーンの別荘にいたってはその擬態を臆面もなく展開する。このような幾重にも塗り重ねられた歴史的対象を、さらに上書きしようとする。すでにアルベルティの『建築論』は、まさにこの種の生き直しの意識であったと、先生は指摘されたのではなかったか。先生がしばしば言及される「古典性」とは、このメカニズムをひとことで言い換えたものではなかったか。さらに先学批判もまた、けっしてたんなる揚げ足取りではなく、こうした重層的の謂いなのであり、その層と層のあいだに独自の新たなレイヤーを挿入あるいは追加しようとすることだと思える。歴史的対象それ自体というものもないのだ。そうした重層のなかにみずからも滑り込むこと、これが福田先生の高みなのである。

 それにしても代表的な著作を通読することでひとりの研究者のアウトラインを知ることは、実りおおきレッスンである。先生のご研究は、核心的テーマを中心にすえ、持続的に探究し、読者にとっては事後的にやっと判明するたぐいの、つまりある単著はやがてそれを含む大きな構想の一部であることが、時間と距離をとってはじめてわかるたぐいの、壮大なものである。多様なものがひとつのものとして統合される。その構造が同じであれば、それを自我とよぼうと建築とよぼうと同じことである。それらはたんなるモノグラフの集積ではなく、劇場と都市がたがいにアナロジーで融合する統合した像を結び、日本の近代建築史そのもののなかに位置づけられるべきものである。それは建築とはなにか、建築はなにによって可能となるか、を問う日本近代における建築的意識のひとつのあり方として、それ自体が歴史的存在となりうるものである。