山本理顕『標準化=官僚制的管理空間』(個人と国家の<間>を設計せよ 第四章)

山本さんより『思想』7月号の記事が送られてきた。ありがとうございます。

2011年の都営住宅設計料ダンピング問題に端を発した、住宅供給における官僚機構の問題が批判されている。

今回はフーコーアーレントベンヤミンらの理論を準拠として、近代住宅についての理解が、批判的に再構築されようとしている。それはこの主題に関する専門家による解説というレベルをこえて、建築家山本理顕の思想そのものの構築に向かっているかのようである。

おおきく簡略化していうと、労働/仕事、社会/世界という対立軸であり、山本さんは二元論のいずれにおいても後者を理想化すべしという主張をくりかえしている。

ぼくは近代の住宅とくに公的住宅(それに追随する商業化された住宅も)において、官僚機構における極端な普遍主義や標準化主義が、一時期は良い面もあったが、社会の実態が変化し、その当の官僚機構そのものも変化したにもかかわらず、いまだに残存していることは問題である、という主張にはほとんど異論はない。

ただ若干の概念規定にかんして、ぼくと違っている点を述べる。

まず「世界」概念はどうか。アーレントの「ポリス」概念そのものを批判するつもりはない。しかし近代ヨーロッパにおいて、アーレントのような高邁な思想家だけでなく、ごく平均的な市民レベルにおいても古代ギリシアの文化や社会のありようを理想化する傾向は19世紀初頭からあったのだが、彼らにとっても「ポリス」とはまさに「ユートピア」であり、つまり非=場所であり、no-whereであり、そんな場所などありえないことが、逆に批判的意味の源泉になっていたのではなかったか。そして社会/世界という構図のなかで、前者は現実、後者は「本来性」という含意があるのは明らかであると思われるが、もし「本来性」が語られずに意図されているとしたら、非場所が本来性の担保になりうるのだろうか、という素朴な疑問である。

それから「社会」の概念。もちろん公共サービスや、それをなりたたせている官僚機構などがこの「社会」なるものを成立させているという事実をもってすれば、社会をそのように批判的に位置付けることはできる。

しかしほぼ100年前、「社会」概念は、18世紀以前的な階級社会や、19世紀的な自由放任主義を克服する概念として期待されていたのではなかったか。日本の大正期において「文化」が期待概念であったと同じように、「社会」はまったく新しい切り口であったし、そこでは「市民」概念も19世紀ブルジョワ社会を超えたものとして更新されたと思う。そう一方的に批判されるべき対象として切り捨ててよいのだろうか。

話は飛躍するかもしれないが、田邊元の「種の論理」は、個と類、すなわち山本さんの論理によれば「個人と国家」に相当するものの中間に「種」を設定するものであったが、それは個人主義全体主義の矛盾を克服するものとして「種」レベルを設定した。この「種」は、ある意味で、同時代に課題とされた「社会」に対応するものであったと同時に、今山本さんが設計しようとする「<間>」に相当するものである。ここではただちにそれらが「同じ」とはいわない。それぞれの論理が構造的に類似しているという関係にあるとき、「社会」「種」「間」は同じ位置を占めているということをいいたいのである。

そうでなければ、山本さんが批判する近代建築家は普遍的住宅を構想することで官僚主義に加担したとしても、彼らのなかの少なからずはいわゆる地方自治体の建築家であって、その立場で市などの社会構築に貢献していたという事実はどう評価していいかわからなくなってしまう。

じつはこれは通史に書かれているにもかかわらず読者は通り過ぎてしまう点なのだ。20世紀初頭の「社会」概念はそれなりにしっかりした実体であった。それは近代建築運動に関係のある建築家たちは「市の建築家」として、都市全般の整備、そして山本さんが批判している公共住宅の建設に貢献した。これは今のヨーロッパ都市を構成している、不可欠のパーツである。じつは「市の建築家」なる役職は、19世紀からの伝統であるのだが、それにしても建築家と社会の関わり(の深さ)が日本とヨーロッパでは違っていたのである。

こうした構図のなかで、ヨーロッパではもちろん山本さんが批判する悪しき官僚主義も発生したのであろうが、しかし、現象は多様であり、すくなくとも玉石混淆であったであろう。だから一円入札は批判されるべきであるとしても、近代住宅全体を巻き添えにするのは同意できない。山本さんの援軍は、その批判されるべきと思われた近代住宅そのもののなかにもまだまだ見つかると思う。