頴原澄子『身近なところからはじめる建築保存』

頴原先生からおくっていただきました。ありがとうございます。

彼女が前任地にいたころ、近くだったので、2年間ほど設計演習をみていただいた。平戸サーベイにもご同行いただいた。さすがに平戸の物件は本書には登場していないが、19世紀イギリスの保存論にかんする講義などは、学生にはもったいないほどであった。都市組織のなかに8字ループを設定せよという課題も感銘した。

新聞の文化欄に掲載された建築保存論の論考をまとめられた本書は、若い学生や市民の方方を、建築価値のめざめにみちびく好著である。

そこで西洋にはあって日本にはない「建築的価値」という概念について思い出した。地方でも役所と福祉・文化施設を一体化した面白くてデザインも素晴らしい建築が建つようになったころ、自治体も、将来の文化財遺産をめざして広報や記録保存やメンテに力いれるべきですね、などと愚見をいったら、同僚の先生から、なにをいっているのだね、歴史的淘汰にたえてこそ歴史的建築の価値が高まるのだよ、とたしなめられた。そうかな。その歴史的淘汰のなかには経済原理や開発圧力もあると思うのだけれど、それらに勝ち残るって?というような反論を飲み込んだものであった。

残ったから価値がある、のではなく、初めから(建築的)価値はあり、さらにそれを育て、高める、そういう建築との接し方をするべきであろうというのが愚見である。そこには建築的価値がまずあり、それに歴史的価値が追記されてゆくという構図がのぞましい。その点で、ぼくは本書の視点に共感する。

別な言い方をすると、歴史的建築というものはなく、1000年前の現代建築、200年前の現代建築がある、というような理解をする。昔のものは忘れがちだが、すぐれた建築史研究によって500年前の物件でも現代建築として理解できる。すぐれた歴史学研究がめざすのは、記憶ではなく、過去の現代化である。過去はそのつど構築されるものだと、哲学者の大森荘蔵も言っていた。

建築的価値とは当初から想定されたものだけではない。解釈などによって、付記され、追加されてゆくものだ。そういう意味で、批評や歴史研究も貢献できる。本書でいえば「軍艦島」を廃墟文化としてみなすという卓見などがそれである。ただ、西洋の廃墟文化と共鳴するということだけではない。廃墟としての軍艦島は、そこの労働者問題、企業体質、ひいては日本のエネルギー政策転換、という「歴史」を体現しているからである。なるほどそれらを省略したら、軍艦島の「歴史」は半減してしまう。

ぼくが「モダニズム建築」という言葉を嫌いなのは、日本における歴史的建築/近代主義という党派的なものがそのまま保存されてしまい、建築的価値の構築のためには不可欠と思われる、党派を超えたベーシックな建築観が育たないからである。建築界のなかでさえそれが欠けている。この状態で、社会や市民のなかに健全な「建築的価値」の意識が育つわけもないであろう。著者はこの建築界的トラウマからは自由であるようにおもえるのが希望である。