福田晴虔『アルベルティ』中央公論美術出版

図書館で発見したので読んでみた。じつは昨年6月に、ある機会に福田先生におめにかかったとき、拙ブログのブルネレスキ評をほめていただき、アルベルティも読むようにとご指示いただいていた。が、多忙を理由にすっかり失念していたという次第で、つくづくぼくは世渡りがヘタである。

稲垣先生と福田先生のやりとりまではさすがに後輩のぼくが知るよしもないが、近代における建築家のありかたのような課題であったらしい。すなわちアカデミズムからプロフェッショナリズムに引き継がれる西洋の保守本流のながれのなかで、アーツアンドクラフツ運動から近代デザインへの流れはバージョンアップされた職人的な建築家像を対峙させるのだが、そういう近代の文脈を意識しつつ、建築家概念の始まりでもあるアルベルティの思想、そしてアルベルティが建築家として自ら選んだ立ち位置を再検討しようというものである。

とはいえ職能論ではない。むしろ理念と理論を構築することの立ち位置である。福田先生によれば、アルベルティの核心は「リネアメントゥム」から出発してコンキンニタス(全体的な調和)にいたるという道筋なのであるが、この建築家は古典主義建築の言語を隠れ蓑にしたり、仮面としてつかっているうちに、後世の人間は後者こそがアルベルティの本質であると勘違いしてしまった、という。

だからここでは建築家とは何者かということと、理論とはなにか、ということが相関している。これは重くて核心的な課題である。福田先生でなくしては提示できないような課題である。

『ブルネレスキ』と同様、本書ではルネサンス建築をネオプラトニズム的視点から解釈することを拒否し、さらには19世紀的な様式史観をも批判し、みずからの視点を確立する。すなわち、冒頭で述べられているが、建築を超越的なものに従わせるのではなく、その内側から解釈してゆく、という。たとえばアルベルティの建築がネオプラトニックだと指摘するのは、アルベルティの仮面をもって形而上学的なものと評価し、そのことによって彼の本意をみすごすことである、といったようなことである。

本書には作品解説もよくなされていて、マントヴァのサンタンドレア教会堂は古代バシリカの単純な再生ではなく、いわば抽象空間を凱旋門という具象で隠蔽したものだとか、刺激的な説明に満ちている。

さてそれはそれとして、いろいろ刺激的な読書からぼくがどう誤読してゆくかという話なのだが、たとえば都市は大きな住宅であり、住宅は小さな都市だというテーゼは、それこそネオプラトニズムの大宇宙/小宇宙理論ではなく、そこに都市社会/個人の二重性のようなものがひそかに含まれており、都市国家間の抗争と、都市社会内における有力勢力の葛藤というつねにクリティカルな状況のなかで建築を構想することは、建築を二重に語ることを余儀なくさせる力学を作用させるのではないか。そこでは絵画に描かれた図像がじつは別のなにかを意味するというイコノグラフィーのことではなく、建築が、というか建築を構想し、建築理論を構想することそれら総体がひとつの隠喩なのであろう。理想都市も、彼らがいきた現実の都市社会との関連で理解しないとわからないのは当たり前だが、建築はきわめて具体的な空間や建造物を提示しながら、べつのなにかを覆い隠し、あるいは換言するのであり、この換言はわからない人にはわからない。

そういう意味ではコンキンニタス(全体的な調和)というのは、理論的にしっかりした概念ではなく、あくまで理念である。現実から抽出したものではなく、アプリオリな理念ではないか。たとえば神学が、神を前提にしなければこの世のすべてが成立しないという論理構築をしていながら、せっせと神の存在証明をしている(ということはこの世の存在証明をしている)ようなものであろう。だから透視図法の消失点とは、紙のうえのコンパスの痕跡でありながら、そこから遠く隔たった別の理念的な点でもある、といったようなことと同じようなことなのであろう。

そういうことを考えると、理論とは現実に一致することに意義があるのではなく、現実と違っているからこそ意義があるのであろう。

さて情報によればこれから福田先生は、理想都市論を書き、そしてブラマンテ論を書かれるそうである。ブルネレッスキ論、アルベルティ論から推察してそれは「それ自身としての建築」というものになるような気がする。ルネサンスの巨匠という多くの碩学が解釈に解釈を重ねたものをとおして、それを探究するのはひとつの大胆な冒険であり、誰もがなしうることではない。それは諸理念の否定ではなく、それら以上に普遍的なものをめざす別の理念の表明となるのではないか。しかしそこには、建築の論壇が長いこと忘れていた、本質論への希求があることは確かである。