『宮脇檀まちなみ読本』

住宅生産振興団体から「家とまちなみ」no.67が送られてきた。ありがとうございます。

その特集が宮脇檀であった。

彼はぼくが大学3年生のとき、非常勤講師としてやってきた。ほかにも池原先生がきてくれた。ぼくは宮脇檀のグループにはいり、彼の課題をこなした。住宅の課題であり、例の「ボックスシリーズ」の手法を踏襲させるものであった。同時に彼が出版した日本の近代住宅についての文献などは、課題があったこともあって、なんども目をとおしたという、教科書であった。当時は黒沢隆、ミシェル・フーコーフィリップ・アリエスなどが世代的教科書であった。

宮脇は洒脱な人で、非常勤にきていたときはまだ40歳そこそこであったことに今計算してわかったのだが、手八丁口八丁、吉村順三の弟子であることを自慢しつつも「ぼくはドメスティックなものが得意(注:住宅作家だという意味)という評価だけど、それだけじゃないよ」と講評のときも教授たちのまえで言い放つのであった。

特集の解説にもあるが、オレゴン大学が日本の伝統的集落をデザインサーベイしたのが1965年、宮脇ゼミのそれが1966年から73年までである。非常勤にきたのはその直後であったのか。さらに逸話としては1960年、24歳のときに、彼は日本全国8600㎞あまりをドライブして民家や集落を見学していた。その資金は、石津謙介の店舗設計のバイト代というから、まさに時代の子である。

そののち周知のとおり、まちなみデザインの方向を発展させ、東急、積水など多くの仕事を手がけるのだが、ぼく自身はそのあたりはあまりフォローしていない。

今思うのは、アメリカ発のバナキュラーなものへのまなざし、60年代から70年代にかけてのデザインサーベイといった全般の、歴史的位置付けである。おそらく若いときにこれらに関与した世代がのちに環境法などを制定する主体となったのであろう。また、その前例はなかったかというと、イギリス19世紀のドメスティック・リバイバル、スケッチェスクなどはそれに相当するであろう。そこからアーツ・アンド・クラフトや近代デザインが誕生した。もちろん100年後のほうが方法論も格段に進歩している。宮脇のスケッチもほんとうに達者である。19世紀後期のイギリスも、1960年代の日本も、いちおうは近代化をなしとげている。近代化したからこそ、まだまだ残っている前近代の遺産をふたたび建築に環流させている。まちなみから学んだものを、郊外の新興住宅地に適応する。広い意味での再帰的近代化というやつではないだろうか。