中沢新一『建築の大転換』など

ぼくは中沢新一の本はけっこう読んでいたつもりであった。でも最近になって必要ができて再読しようとすると、初期のもの以外はほとんど読んでいないことに気がついた。書評やなんかの話題で接していただけなのに、読んだつもりになってしまう。そういうすごい書き手なのである。ともあれそんな経緯で『建築の大転換』『大津波原発』『網野善彦を継ぐ』『日本の大転換』『純粋な自然の贈与』『芸術人類学』『フィロソフィア・ヤポニカ』『対称性人類学』などをざっと読んでみた。

あらためてわかったのであるが、彼はかなり若い頃から自分のモチーフを確立していた。つまり5万年ほどまえに人類の脳は飛躍的に進化して、流動的な使い方が可能となり、アナロジーやシンボルのようなことができはじめたが、それは人類共通の原理のようなものとなった。その原理から、芸術、宗教、言語などは生まれた。それを共通の祖型としつつ、人類は各地に散らばり、異なる人種や民族となったが、祖型はあくまで共通している。そんなことに学生のころに気がつき、仏教と量子力学の共通性などについて考えていたという。

この共通する祖型は、流動性という強い特徴があるという。この祖型からラスコーの洞窟壁画、(洞窟の比喩が好きな)プラトンの『コーラ』、仏教、近代物理学、近代アートなどが誕生した、というのである。近代合理主義への批判というように位置付けると、なるほどひとつのしっかりした陣営を構築したかのようである。

レヴィ=ストロースの野生の思考をそんなふうに普遍化するのも面白い。

ただそこまで大風呂敷だと、建築分析に役立てたいなどという動機はけしとんでしまうのであるが。

それからそんな単純な二元論として解釈すると、チュミの『建築と断絶』(ピラミッド/迷宮)とかタフーリの『球と迷宮』といった世界観、すなわち計量的な合理主義と、そうではない非合理主義的なものとの相克として近代建築史はあるといった見方とそんなに変わらないことになってしまって、話を面白くしたい方向にはいかない。

でもいろいろ考えると、戦前の京都学派は近代の超克などということをいっていて、批判されることもあったが、前述の『コーラ』概念を導入し、西洋の近代合理主義を批判するなどというようなことをやった。ジャック・デリダの『コーラ』なども出版され、建築界でもこのプラトンの概念が80年代90年代にさかんに言及されると、結局のところ、というか、ひょっとしたら、20世紀のKWであったのかもしれない。

さらにいえば、日本は西洋の建築概念と格闘したあげく、伊藤ていじが「間」をKWとして抽出し、さらに磯崎新がその世界展開をして、世界に知らしめた。でも最終的には『建築における日本的なもの』などのなかで、間=プラトンのコーラ、などという主張を繰り返しているなどということを読むと、勉強させていただいておいて傲慢ではあるが、むしろぎゃくに「間」の活用とは20世紀的なものであったなどと相対化されて、はい一丁上がりなどということにもなりかねない。

でもそうした相対化こそに意義があるのかもしれない。20世紀論はまだはやいかもしれないが、その枠組みのイメージのひとつをもたらしてくれるからである。