Born to be wild

しっかりゼミをやったあと、学生といっしょに《イージーライダー》を鑑賞した。

アメリカ60年代のコミュニティ運動に関連したことをやっている学生がいるのだが、なにしろ学生にとっては生まれる30年もまえのことだから、感覚がない。そこで時代感覚を養うためにこの映画を提案したのであった。

ぼくは中学生のころにロードショーで見て、40年ぶりくらいになる。今見るとストレートにわかる(気がする)。

オートバイにまたがり、腕時計を捨てて旅に出る主人公は、アメリカ的自由理念をストレートに表現しているようでそうでもない。西部劇の馬のかわりにオートバイ、である。しかし彼らはモーテルには泊まれず、野宿をつづける。これは西部劇のもじりである。東から西への開拓物語とは逆の西(LA)から東(ニューオーリンズ)への旅、という演出だけがすべてではない。アメリカ原住民、ヒッピーコミュニティ、カトリックマルディグラ)との出会いを重ねて行くように、マジョリティではなくむしろマイノリティとの出会い、中心的ではなく周縁的なものとの遭遇、そこにこそ自由が問われるという深い構図がある。

記録として重要。道路。1925年のUSハイウエイ網策定案、1930年代のニューディール政策などにより道路網が整備され、そのインフラ上に1969年のこの映画ができる。二人が旅している道の両側に展開されていた、当時の風景が記録されている。工場などの産業施設が撮影されていて、まだまだ実体経済のあった時代のアメリカが記録されている。郊外の新興住宅地、やはり郊外だがほとんどスラム街のようなところ。景観記録フィルムとしても面白い。

伝統的にアメリカのフロンティアは西であった。西部開拓。ジェファーソンのモンチチェロも西方に理想郷を設定しているし、それをもじったフィリップ・ジョンソンのニューカナーンもそうである。49ersというアメフットチームがあるが、それは1849年のゴールドラッシュでカリフォルニアにラッシュしてやってきた人びとを意味する。スタインベックの『怒りの葡萄』(1939)もまた、農民が夢をもとめてオクラホマからカリフォルニアまで苦難の旅をするのであった。しかし1969年にはとっくにフロンティアは消えていた。だからライダーたちは東を目指した。そうしてピーターフォンダらの旅はある種の先祖返り、しかも手のとどかないもどかしい先祖帰りなのであろう。

学生の反応はなかなかよくて、西から東へという旅は、それまでの西部開拓の方向とは逆である、カトリックの祝祭(マルディグラ)やカトリック墓地をとりあげたことの重要性の指摘、など。ゼミ的にきいてみたら、学生全員からしっかりした反応がかえってきた。

関連ありそうなことを思い出す。サイモン&ガーファンクルの《アメリカ》、ポールサイモンの《マルディグラ》や《アメリカンチューン》なんかは同じようなアメリカ的理念の問い直しである。はたまたラストの狙撃シーンは、その数年前の大統領暗殺事件のトラウマそものものが無装飾に露出しているという感さえする。

人類が月面着陸をしたころ、地球上はこうだったのである。アメリカは、地上のフロンティアをなくしていたので、宇宙を目指したと昔からいわれていたが、そのまんまである。