原論的な設計教育(4)基底的なもの

 「建築雑誌」2019年7月号の愚論がたまたま退職記念論文になってしまったものだから、自注をつけつつ反省している自己宿題。

●再録:
 すべては演算に還元される。そこでなにが基底的か。結論先取りすれば19世紀は素材(ゼンパー的唯物論)が、20世紀は人間(生権力・生科学)が基底的であった。21世紀はいうまでもなく情報である。モノ、ヒト、情報はそれぞれ異質である。ところがこれらは「操作性」の序列である。モノは物理的・化学的に重厚に、人間は心理的・生理的にほどほどに、情報は演算的に迅速かつ膨大に処理できる。
 操作性向上への欲望が「モノ→人間→情報」という上昇を呼ぶ。情報が最速だ。それ以上のものは、神による世界の設計図しかない。そして人間の操作性はこの神の設計図にひたすら接近している。とどのつまりAI帝国では「神の見えざる手」が可視化される。見えざるものが見えるのだから革命である。そこで世界の背後に神を想定するという基幹的なものへの回帰であろう。
 ここでモノ、ヒト、情報はレイヤー構造であってもよい。すると通時は共時となる。ゼンパーの建築論では基底的「素材」に工芸(人間)が介入して様式(情報)を出力する。他の19世紀の巨人。ダーウィンは「物的環境→有機体→遺伝情報」という構成である。マルクスは「商品(モノ)→労働(人間)→貨幣(数情報)」である。あらゆる商品が資本に還元され、あらゆる事象が情報化され操作性は最大化された。

●自注:
 残念ながら日本の講座制建築学のなかの分野としては、構造、環境、歴史、計画、意匠のあいだの壁はもはや克服しがたい。昨今の大学改革のなかで、融合とか学際とかいろんなかけ声があった。しかし結局、切ったりつないだりのマッチポンプにすぎない。本質的な更新はできていない。だから歴史が浅いけれど、真摯に欧米に学んだばかりの若いスタッフを集めてスタートした新興国が、あっというまに日本を追い越してしまう。いわゆる「日本化」が悪いとは思わないが、変化のスピードがまったく鈍化することはなんとかしたほうがいい。
 それでもなんとかなっていると見えるのは、日本の国内建築マーケットのそこそこの規模(日本はけっして貿易依存ではなく内需に支えられていることを再認識)、人的資源を相互に活用する人づかい能力、建築全般についての「建築はひとつ」的なあわい信頼と神話なのであろう。書斎の教授であったぼくの戯言なので、実務者たちはどんどん修正されたし。
 「共約可能性」という言葉があって、一見異なるものたちであっても、すくなくともそれらを比較できるのは、なにか共通する類似なところがあるはずだ、というような概念である。諸分野に分裂した建築において共約可能性とはなんだろうか。いろいろあるとおもうが、ウィトルウィウス聖典にもどって用強美などというのは強引な固定点をもってくるにすぎないので、却下。諸分野が現代性や将来指向性にもとづいてどんどん自己更新しながら、しかし協調してゆくはずである。そのときの共約可能性とはなんだろうか。
 いわゆる建築論や建築理論がそんな絆となるよう期待されたはずである。しかし往々にして理論もまたひとつの蛸壺化してしまう。そして全体を包容すべきという本来の使命をはたせないでいる。これは自戒の念でもある。だから「基底的なもの」とはそのような、建築を包容できる、共約可能性をもたらすことが期待されるなにかというつもりであった。
 そんなことをぐるぐる考えながら、いまや老建築史家となったぼくは、1970年代的なパラダイム理論を再活用して将来を考えてみようと思ったていどのことである。
 ようするに、
19世紀→「モノ」。素材(ゼンパー的唯物論
20世紀→「ヒト」。人間(生権力・生科学)
21世紀→「コト」。情報
などだが。
 ああ、こういうまとめかたって磯崎新的だなあと思ったりする。さらにその根元はエルンスト・カッシーラーである。さらにいえばカテゴリーに区分するという根本は、古代ギリシア哲学にまで遡及できる。すこし脱線すると、小さな原稿を書くためには種明かし的な遡及ていどで十分なのだが、いつの日か、古代ギリシアも現代も、時間軸にそった影響関係の構図などといったくだらない種明かしゲームではなく、それこそ人間がいやしくもものを考えることの根幹として、古代から現代までをひとつの同時代だと思えるような、そんな建築史=建築理論=建築論を書いてみたいものだ。過去30年間、建築史学においては、情報収集は桁違いに進んだ。しかしそれで俯瞰力が高まったとも思えないならである。
 ぼくが基底的なもの共約可能性のあるものということでイメージするのは、たとえばマルクス資本論』なのだな。資本論の核心はあたりまえのことで「資本」のメカニズムを説明したことである。資本論という原著タイトルの翻訳はあまり正しくない。それはようするに「資本」とはなにか、の説明であった。それから「メカニズム」を機械主義と訳するとおかしいように、資本主義(キャピタリズム)は「資本システム」「資本メカニズム」ととりあえず考えたほうがいい。それを、資本を最上位としたいイデオロギーとするのは悪意の解釈であって、マルクスがいう科学的なものなのではない。
 マルクスはようするに「すべてはお金に翻訳されうる」とシンプルで最強の仮説をたてた。つぎに翻訳されうるからには、「お金」と「商品(モノ、コト、サービスもろもろ)」は全面的に交換可能だからという次の命題となる。さらにこのGとWの交換系列をチャートとしてえがく。まずG系列とW系列がパラレルに描かれる。そして次が最重要。この2系列はとりあえず両立される。しかし見ようによってはW系列の、見ようによってはG系列の、「ひとつのものの自己展開」として認識できるのではないかい?だからこのプリミティブな段階ですでに、資本一元論、資本の自己増殖ということが見えてくる。(着想はここで可能だが、素人のぼくはデータでもって描くなどということはできない)。
 バブルのころよくいわれた「ヒトはまず労働して金をかせぐ、つぎにヒト(他人)に働かせて金をかせぐ、さらには金に働かせて金を稼ぐ」ということになるわけである。だから拝金主義、守銭奴というのは注意喚起の余談のようなもので、キャッチーな漫画としてマルクスはサービスしているわけである。マルクスご本人は、さほど貧困層に優しい人間ではなかったというような評伝もあるそうだ。資本一元論により、世界を支配する神は資本だ、を構想したマッド・サイエンティストであったとするほうが、ぼくにとり(こちらが思想的に支配されないので)安全で楽しい。
 こうした資本(貨幣)一元論を換骨奪胎して建築に応用したのが原広司の均質空間論であり、布野修司の社会的総空間の商品化であり、西洋における平行現象としてはルフェーヴルの空間の生産論などであったりする。それは世界の成り立ちを読み解くのに最強の指標が「空間」であるという認識である。ペラペラ、ぴかぴかの空間は無機的で非人間的だなどという印象論ではないのである。
 「人間」についてはすでに八束はじめが近代建築運動のなかの生政治パラダイムを論じているのだが、基本的には正しいと思う。ただそれは運動だけにあったのではなく、全般的な行政システム、社会システムがそうだったのではないかと思っている。歴史学では総力戦体制の研究などがなされたが、これも人間パラダイムであろう。
 そもそも20世紀こそ、労働者/資本家、市民、住民、貧民、細民、ピープル(民衆)、大衆、マルチチュード・・・などさまざまな概念をもって、それこそ大汗をかいて「人間」を捉えようとしたのではなかったか。そのなかで建築は、あえて指標をしぼることで、必要な水量、必要な空気(換気・環境)、必要な日照、必要な床面積、必要な食物(機能的な台所)・・・などという生理的、身体的な生存のミニマムな条件だけは満たすような住宅を考えた。階級をこえた人間一般を想定できるからである。これがいわゆる社会的住宅、公共住宅、最小限住宅、はたまた低廉住宅、アフォーダブル住宅、などの思想的背景である。こうしたことは日本における住宅論ではほとんど考察されない。しかし19世紀西洋には膨大にあった「労働者住宅」を陰画として、ここで「脱労働者住宅」なる造語をしてみれば、すんなりと整理できる。20世紀の公権力は、19世紀には頻繁に発生した、団結した労働者による社会動乱をよく覚えており、それを恐れていた。だから、その20世紀の住宅政策において「労働者住宅」などつくりたくないが本音であった。だから「ミニマム」とは、「労働者」の上書きとして機能しているのである。さらに労働者の団結を阻止しようとしていると疑われないよう、共用施設をつくり、住民の交流を促進するふりをしたりする。
 「情報」については、すでにぼくの世代は担い手ではないので、若手に注目すべきであろう。ただAI×ビッグデータ最強説もすでに古いようで、ビッグデータが不可欠なAIなどポンコツだと指摘されれば、なるほどそりゃそうだと思う。
 建築史学も桁違いの情報収集をおこなってきましたが、ほっておけば諸分野に分裂してゆく建築学を再統合するような、包容力にあるヴィジョンを提供しましたか?してませんね。さらに世代論的視点から学界を展望するに、昭和末から失敗の30年といわれた平成時代を支配してきたのは、1940年代生まれ世代(全共闘世代、団塊の世代などを含む)の哲学である。それは活力があり、立派であった。しかし次が見えてこない。いまのところミレニアム世代有望論を信じている。個人的にも1980年代生まれは、変な先入観から解放されたのびのび世代という印象だし、ぼくも遊んでもらえて楽しかった経験がけっこうある。まあそのあたりかな、将来展望としては。1980年代生まれつぎつぎと40歳台になり円熟してゆく2020年代は面白そう。きっと。