『超マクロ展望 世界経済の真実』など

春眠暁を覚えず。大災害や大事故をぼくなりに注視しながら、情報/電力の対比などを考える。情報は、管理されているものもあるとはいえ、さまざなま情報ツールによって民主化されフラット化されつつある。逆に電力はますます独占的、中央集権的になっている。今回の件が、そうした構図を解体するのではななく、むしろ強化するようなシナリオもあってしまうのではなか、と考える。それはともかく、この1カ月、個人のまわりでもいろんなことが停滞していた。わずかな読書だけメモしてみる。

浜矩子『スラム化する日本経済』(2009)。すでに古くなった文献だが「スラム」というKWにひかれて読んだ。基本は、サスキア・サッセンらが論じている、グローバルな労働力の流動化によって、国境を越えた階級社会のようなものが登場する(している?)というような内容である。このスラムであるが、大都市の各所に具体的にかたちをもって立ち現れるスラムもある。しかし日本では、住宅過剰供給という現実もあり、スラムはしばらくは潜在的であるようだ。潜在的というか「見えないスラム」がすでに実体としてあるのであろう。

柄谷行人『世界史の構造』(2010)。よく整理整頓されていたが、これは「アソシエーション」を位置づけるための構造であるような印象である。だから宿命論的、黙示録的な雰囲気のなかで読んでしまった。この書の枠組みのなかにはいってしまうと、この理論はなにか否定しがたい批判しがたいもののように感じられる。いっぽうで、斜めからのアプローチとして、このような交換様式の4種類として世界史の構造がひとまず描けるとして、さてそれでは建築史や都市史に応用できるかというと、ぼくは四極構造を応用したいという気にはなれない。なぜだろう?

水野和夫・萱野稔人『超マクロ展望 世界経済の真実』(2010)。本書では日本のデフレ経済がじつは世界の最先端、あるいはバブル経済=経済の金融化がじつはアメリカの先兵としての日本の位置づけだった、金利革命というのはある種経済発展の必然的プロセスである、といったようなことが書かれていた。そのなかで岩井克人柄谷行人の説が、市場と資本主義を混同するとして批判されていた(p.120)。つまり彼らは、逆向きの市場原理至上主義であった、というわけである。水野らは市場には還元できないもの(たとえば国家というような)の重要性を強調している。それはともあれ、建築や都市のプロジェクトがどのように立ちあげられるか、という興味からすると、水野理論のほうが建築史的にはなじみやすいという印象である。

酒井健『シュルレアリズム』(2011)。よく整理整頓して書かれていて専門外の人間にも親切である。前衛もすでにアカデミックな研究対象になっているということである。

佐々木俊尚『キュレーションの時代』(2011)。グーグルが情報の海のなかを泳ぎつつ検索によって視界を得るといったことを目指していたのにたいし(検索では未知との遭遇がむつかしい)、その海あるいは大陸のなかで、ミクロな生態系がうまれ、そこでは見識のある個人=キュレーターが鍵となるという主張である。潜在的であった可能性の展開、というようには読める。でもなにか突破感はないなあ。

網野善彦『歴史としての戦後史学』(2000)。いまさら的読書だが、図書館をぶらぶらしてたら目にとまったので借りて読んだ。百姓≠農民説や、常民研究所での資料整理など、歴史家の半生が読みやすく書かれている。歴史観の闘いのまえにアーカイブの闘いがあったのか、という感慨をもった。