特集『アジアアトラス』

ぼく自身が時代の流れを(すこし遅れて)実感したのが1988年ことであったのだが、中東、インド、ネパールなどを数ヶ月かけて旅行したのち、アジア調査旅行をまえにした研究者集会をのぞいて、その熱気に圧倒されたのであった。肩身の狭い人生になるであろうという予想はほぼそのとおりになった。

「建築雑誌」3月号特集なのであるが、大特集といっていい緒論のなかで、やはり佐藤浩司さん(ずいぶんごぶさたしてますがお元気ですか?)の発言がいちばん印象的であった。1940年代の「建築雑誌」におけるアジア特集、1980年代のアジア指向、そして現在という歴史観をしっかりもってられて、そのなかでいっかんしてアジア理念については醒めている。彼は80年からずっとそんなポジションであった。私見でも、1980年代ならアジアはフロンティアであったかもしれないが、もはやフロンティアとはいえない。

先日、中国人建築史家のかいた文献について、専門家の説明を聞く機会があった。日本建築の概念がまだ定まっていなかった伊東忠太の時代、日本人建築史家が大陸で調査研究したことが、中国建築史の基盤のひとつになっているという内容が書かれていた。そうであるなら伊東時代の大陸は、日本建築も中国建築もまだ概念としては確立していない、つまり純粋に「建築」という概念だけと向かい合っていた場所であった。そののちの知的汚染のない純粋な「建築」がある時空があった、ということである。

帰りの新幹線のなかで大橋良介『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』を読んで、日本近代のインテリはなんとヨーロッパに共感的なことよと思い、結局のところ、自分もそうなのであって反省しなければならないと思ったものであった。しかし反省ついでにいうと、1930年代の「日本的なもの」考察が、20世紀の日本美学の基礎をつくったとあらっぽくいってみて、結局のところ「日本的」とは「ヨーロッパ的」そのもの、あるいはせいぜい前者は後者の反転か組換えのようなものであろう。

20世紀前半は、数年ごとに時代の風向きがかわるのであって、歴史家も平板な枠組みを用意していたのでは時代を誤解するかもしれないのだが、戦後のある一時期の視点からは、近代化=西洋化はいきすぎでそれへの異議申し立てとしてアジア指向が位置づけられる、という論調であった。ただ1930年代の雰囲気は、東洋傾斜のなかでの一種の「避難」としての美学であったはずで、するとその時空において、日本的=ヨーロッパ的なものという構想は、やはり時代避難であったのではないか。

世代論をとおして時代予測をしてみるのである。1980年代の空気をすったのが50年代生まれと60年代生まれである。この特集もこれら世代のマニフェストという感じがする。この世代は、上の世代を批判しつつ海外戦略をねった。しかしポストバブルの若い世代は、新しい世界経済、その長期デフレ傾向という利害関係のなかに投げ込まれていて、構造的に、心情的に、親アジア的かどうかはぼくが推測できることではない。今の学生の留学離れをみているとやはり再度、時代は変わっている。「日本的なもの」の隔世遺伝はおこりうるであろうか。