建築神社に初詣?

・・・ときどきかってにやってくる妄想。あまりためのんではいけないということで。

三田の建築会館ちかくには建築神社なんかあってもいいのでは?

神殿ではなく、神社である。なぜかというとギリシア風の神様はどうも人間たちのためというより、自分たちのために存在しているような気がする。だからここは日本風でいこう。建物の様式もとくにきまりはないのだが、妄想ということでいえば、春日造がよろしい。大社造などはどうもよろしくない。

ついでにいうと建物というより祠、大人二~三人で持ち運べるようなサイズがよろしい。稲垣榮三先生のご指摘にそう、由緒正しい神社のありかたが望ましい。信者を圧倒するモニュメントではなく、精神を宿した、高貴で清廉なものがよろしい。

建築がダウンサイジングしつつある当世。いろいろ願をかけてみよう。ゼネコンは公共工事が受注できますように。業者さんは、とにかく請負できますように。アーキテクトはコンペで勝てますように。学生は、卒計コンクールで入賞できますように(本音は就職できますように)。大学教員は、研究費が増えますように。いろいろである。

もちろん家宝は寝て待つのではいけない。神様は努力をする人間にご褒美を与える。偉大な人間ほど、日々の努力は欠かせない。ル・コルビュジエも毎日、午前中は絵を描いたり、デッサンしたり、浜辺の石ころをしげしげ眺めたり、感性を磨くことを忘れなかった。村上春樹は毎日1時間ジョギングをする。某建築家は、毎日、午前中は読書をして頭脳を鍛え、思想を構築する。神託を得るためには、日々努力して、自分自身をベストの状態にチューニングしておかねばならない。

中世ヨーロッパのコスモロジーにおいて神は建築家であった。神は世界を設計し、構築したアーキテクトであった。だから神殿は、世界を設計した全知全能へのオマージュでもあっていい。守護聖人だれそれ、芸術の神様、医学の神様、鍛冶屋の神様に捧げられた神殿もある。でもそれらは部分的である。デミウルゴスに捧げられた神殿こそ、ほんとうの神殿である。

中世以来の同業者組合にはそれぞれ守護聖人がいた。そのもとに職人たちは、職業の組織をまとめ、その決まりや知識を保持し、相互扶助をし、倫理を守った。職業は神に守られていた。

近代の資本制における営利的職業は、そのような神はいない。しかしより抽象度を高めた神はいる。貨幣である。拝金主義もまた、まさに一種の信仰であり、貨幣という神を奉る。しかしこのきわめて抽象度の高い神は、どの職業にとっても共通の神である。すると職種の違いはあまり重要でなくなる。

「労働」はもちろん貴重なものだ。しかし現代人としてみると「労働」はどうもイメージがわるい。ぼくたちが怠け者だからではない。「労働」はどんな職種をも包含するとても抽象度の高い概念である。それはいろいろな価値を内包するきわめて抽象な「貨幣」に対応する。労働と貨幣は、神と女神なのである。

でもぼくたちはそんな「労働」は必要悪だというように考える。なぜか?

ぼくたちは、大人になるときに、とても大切な決断をする。それは職業を選択するということである。一生の決断で、これよりも重要なものはそんなにはない。しかし「労働」も「貨幣」も、この一生の選択をはるかに超越しているので、この職業こそをと熟慮して考えたことが、どうでもいいような扱いをされたと感じてしまう。だからぼくたちは労働も貨幣も、大切なのだけれど、あまり考えたくないのである。

だから建築の神様なのである。職業を選ぶのは、ちょっといい暮らしをするためであり、なんらかの誇りをもちたいからであり、自分の特性を発揮したいためであり、社会貢献もしたいからであり、云々である。でもそのような、自分に戻ってくるような動機もよいのだけれど、それをつきつめてゆくと、その職業そのものに自分を捧げているような気持ちになってくるかもしれない。あるいはそんな気分になると、いろいとつらいことがあっても、自分を支えられるかもしれない。

だからぼくは、建築の神様はいると思うことにしている。