原論的な設計教育(3)設計に原論はあるか

この連番を忘れていたが、思い出して復活。たんに備忘録だから読まなくていいです。もし読んでしまったら笑ってください。

●再録:
 それにしても、そもそも設計とはなんだろう。かつて情報化がいわれたころ、私たちは情報の海に漂うのであろうとされた。昨今のAI指向はそれへの回答になっている。数学者によればAIが人工知能とはいいすぎで、順列組合せにすぎない。コンピュータの演算能力は桁違いなのだが。
 ともあれ情報の海からAIによりある論理素「A→B」が導かれる。ただしそれは単純な因果律ではなく、きわめて曖昧である。「AならばB」はカテゴリー領域の分割にすぎない。時間をいれると「AからBが生じる」と生成ができる。このように「→」はカテゴリー/分類、原因/結果、理由/行為、目的/実践など多義的である。そこにあえて積極的な意義を見いだす。「A」と「B」は水準が違う。たとえばソフト/ハード、機能/形態、プログラム/スペースなどと異次元であると設定してみる。すると「→」は一種の「変換」や「翻訳」であり、「設計」でもありうる。
 古典主義建築も理念/造形、法則/実際という二分法のなかで「→」を考えてきた。モリス主義は設計(考えること)と製作(つくること)の再統合をめざした。ぎゃくに建築計画学は計画/設計の二分法などにより「→」を多段階化した。ヨーロッパではスタディ事務所が計画学の機能を果たし、公共にも民間にも対応する。AI技術を建築課題に適用するノウハウのある日本型スタディ事務所があればよいということになる。ただ情報はスタディ/設計/制作を再統合するであろう。分節と統合が周期的に繰り返されよう。
 都市論とはある理念型を現実のカオスに投影してその有効性を検証することであった。ところが理論的には、ある都市のすべての部屋とすべての道をデータ化すれば、ほぼ完璧な類型化、統計化、仮説構築などが瞬時にできる。

●自注:
 ともかく九州芸術工科大学の環境設計学科というところに着任したものだから、なにせ「設計学科」なのだから「設計」についてまったく考えないというわけにもいかない。
 授業にはまったく反映させなかったが、ぼくがずっと考えていたのは「設計とはいかなる脳の使い方か?」「設計とはいかなる演算形式か?」「設計とかいかなる論理形式か?」などということであった。真理解明できなくとも、自分なりの了解が得られれば、建築史の研究にも、設計演習における学生指導にも、そのほかあらゆる分野に役立つ普遍法則とできるはずである。すでに動かしがたく固定化されている日本の講座制建築学は、産業構造とリンクしてしまったので、どうしようもない。やがて大革命がおこって根本的に再編成されるにしても、ぼくは引退していそう。だから、自分なりの了解をつくっておけばよろしい、くらいのことであった。
 上記の「→」論は、古典主義建築にも、モリス主義にも、近代建築にも普遍的に妥当する。するとそれは古代哲学ですでに考えられていた形式論理のようなものになる。すなわち素材、データがいかなるたぐいのものであっても、普遍的に作動する、処理のしかたである。「なにを処理するのか」はフリーであり、「どう処理するか」が問題である。そのようなレベルである。
 都市学、都市計画学は、西洋では20世紀初頭に都市計画法の制定に即応して、立ち上がった。しかし日本では、1960年代にやっと東大工学部に都市工学科ができたし、今でも都市を冠する研究教育組織は少ない。
 とくに地方は、都市学不在の状況がずっと続いている。たとえば九州にはほぼない。九大にも建築学科のスタッフとして都市計画専門家がいるだけで、せいぜい研究室レベルである。そのほかの大学にも例外的にそれらしきものもあるが、全体として少ない。しかも九州の都市計画学教員は、ほとんと東大、つくば大、早稲田大出身者である。九州はその分野の研究者スタッフを自給自足できないのである。九州は経済規模もそこそこで、多様で、豊かな地方であり、美味(うま)し国と呼ぶにふさわしい。自治体も多様であり、魅力も問題も山積している。そのような地方で、これからの地域社会、自治体において指導的立場にたち、地域を経営してゆく優秀なスタッフを現地生産できない体制となっている。首都圏からの輸入にたよっている。ついでに東京のコンサルに食い物にされている。
 九大でも文科省のいいつけで人社系学部の再編成を指示されたとき、ぼくもWGメンバーとして呼ばれた。そのときに九大に欠けており必要とされるのは、都市スタディの学科・専攻であると主張した。最終的には多学部が参画してのアジア圏中心の都市スタディを研究組織として設立することとなった。愚説もすこしは貢献しているかもしれない。
 九大には環境設計学科と建築学科の2つの建築系があって、統合するのしないのと10年以上議論しても固まっていない。ぼくの提案は、国際的な標準形とするというものである。すなわちハーバード、MITやアジアのフラッグシップ的国立大学はそうなのであるが、都市系、建築系、芸術(設計)系の三位一体である。だからすべてを1学科に集約して大建築学科とするのは愚の愚である。行政学をも担える都市系、工学ベースの建築系、芸術・設計ベースの設計系の3学科トリオが世界標準である。九大の場合、後者2者はすでにあるから、都市系をつくれば世界標準があっというまにできる。
 くりかえすが1学科集約はたんに合理化である。そして弱体化の路線である。文科省は喜び、大学は弱くなる。しかし3学科ともなれば、1学部ともできうるし、地方の課題に答えつつ、世界レベルに到達することも可能であろう。発展の図式が描けるのである。
 最後の都市論云々はAIを極論した理論的な妄想である。すなわち都市を理解するとはなにか。直裁なのは、すべての建築、すべての部屋をスキャンし、データ化することである。社会を理解することとはなにか。それはすべての市民を調査し、指標によりデータ化することである。しかしそれは大変なので、ごく一部をサンプリングし、仮説をたてて、理論化する。その理論を現実との齟齬がないかどうか検証する。都市学、社会学というのはそれである。ここでも「理論」と「現実」という2項目が関係「→」で結ばれる。ある形式論理でリンクされる。それが都市学なのであろう、と想像するのである。
 ぼくがポスト・キャリアのなかで考えてみたいのはこの形式論理「→」である。いくつか素案があるのだが、それにむかっての読書と愚考をつづけている。まだ萌芽的なのでしばらくは秘密である。