テッサロニキの回想と憂愁、あるいは研究者意識の世界性とか

ギリシアの都市テッサロニキは、たぶん1984年訪問。なんと36年もまえの話になってしまった。
 とりたてて興味があったのではない。パリに留学したとき、フランス国内はいつでも見学できるから、とりあえず、優雅に鉄道で最遠のイスタンブールでも行こうと考えた。学生だったのでいわゆるオリエント急行にはのれず、ミュンヘンからの直行便(オリエント急行もどき)でイスタンブールにいった。つぎはいよいよギリシアだ、ということでユーラレイル・パスをつかってアテネ行きの鉄道にのったら、これがひどく疲れる。たまらずテッサロニキで途中下車した、ということにすぎない。
 港町だから、開放的であろうが、とうぜん乱暴で猥雑であろうと予想していた。しかし中産階級の存在が感じられる、落ち着いた町であった。意外であった。今はどうか知らない。結構気に入って、結局、2泊3日くらいの滞在となった。
 フランス語の旅行ガイドはシンプルだが的を射た解説をしていた。前4世紀、マケドニア都市として建設。前168、共和政ローマ自由都市。476年、西ローマ帝国崩壊により、東ローマ都市。それからの経緯はややこしいので中略して、テッサリニカ王国時代もあったが、15世紀からオスマン・トルコ支配。1912年にギリシア領。たほう、日本語の旅行ガイドはほんとうに役にたたない。
 歴史的建造物もそこそこある。上記のような経緯だから、都市整備もつねになされていた。個人的興味としては、1870年代からオスマン帝国下での都市の近代化がすでに着手されていたこと。1917年大火ののちに、エブラール(Ernest Michel Hebrard, 1875-1933)らによる復興=近代化計画が策定され、ヨーロッパ的な臨海都心部が形成された、こと。エブラールは、ベトナムカンボジアなどでも活躍したらしい。ぼくのテッサロニキ印象はこの20世紀初頭の都市整備がもたらすものであろう。
 ぼく的関心は3点。
(1)都市の近代化は、オスマン帝国下の19世紀にすでに、着手されていた。もちろん都市ごとに事情はことなるのだが、地中海都市のいくつかは、オスマン帝国の政策的都市計画が展開されていた。ただフランス語の専門書を読むと、オスマン帝国はとにかくアーカイブを残すという意識が希薄なので、よくわからないことが多いらしい。
(2)20世紀になるとフランスが都市整備を支援するようになる。もちろん、委任統治として直接整備をするもの、スタッフを派遣して案を提供するもの、などいろいろ。もちろん建築や工的な技術提供(スエズ運河は最たるもにだが)は19世紀からずっとあったのだが。
(3)フランスは「都市計画法」「都市(計画)学」を1910年代に立ち上げた。その展開としては、国内も海外もおなじように視野にはいっていた。近代都市計画は、国内方式の輸出、海外実績の逆輸入、などと位置づけられることがある。しかし専門家たちにとってはようするに最新の学問・技術を提供するということで、同じことであったのではないか。いわゆる「国際性」を考察するうえでの、観察者の視点もまた慎重に設定しなければならない。
 理論的に整理してみる。都市整備・都市計画は「統治」のなかのひとつのお仕事である。では統治とは、○○人による○○人支配(自治)なのか、××人による○○人支配(これを他治とはいわないが)なのか、である。理論的には、××人は○○人に自治をまかせる、という第三の方式があるが、都市整備にはあてはまるかどうか。ともかく「統治」主体が移行したときに都市整備はどうなるか、という目でみてゆく。イギリス人はムガール王朝の後継としてインド支配を継承したが、都市整備はまったく西洋式であったような印象である。フランス人は、地中海支配をオスマン帝国から奪ったが、いくつかの事例の紹介をみると、オスマンがすでに着手していた都市整備・近代化をうまく継承しつつ、西洋化・近代化をはかったという。近代についてはデータ、アーカイブも膨大にあるので、研究すればいろいろ判明するであろう。
 ただこういう「統治の移行」は古代ギリシア古代ローマビザンチンやゲルマン諸王国・・・・などと歴史的には常態であったわけである。すると近代におけるそれが特殊なのではなく、おなじ歴史的パースペクティブでみることができそうである。
 また西洋による支配は、都市整備・都市計画の法制度化、都市スタディ資料、都市計画文書などの「知」「情報」による支配である。だから非西洋の研究者が、いかに批判的歴史観、批判的距離をもちつつ、それら「知」を活用しようとも、いちどその「知」により支配されることはまぬがれない。すると研究対象の世界性とはなにか。研究主体の世界性とはなにか。これらはまったくわからなくなってしまうであろう。そういう混迷にいちど飛び込んでみて、あらたになにかを打ち立てることなのであろう。
 ビザンチンの遺構はいくつか残っていた。レンガの積み方は構造にして意匠になっていること。現在の市井の建設技術としては、RCで軸組をつくり、中空レンガの壁体により埋めてゆくというやりかた。地中海沿岸をずっと見てきたが、これは汎用的な形式なんだなあと思った次第。たいした熟練もいらず、町場の工務店でひょいと作れそう。
 などなど連想はつづく・・・