原論的な設計教育(1) 設計教育についての個人的な経験-

『建築雑誌』(2019年7月号)に「原論的な設計教育を私は目指してきた」を書いた。6月末に大学を退職したので、すごいタイミングで論文が掲載されたものである。読み返してもると、スピード感があってわれながらよく書けているとも思える。四半世紀のサマリーとしては短すぎる。さらに次の3月号には似たテーマの論文が掲載される予定である。そこで補助線を引くようなつもりで、節ごとに自注をつけて連載のようなものとしたい。

●再録: 
個人的な経験
 まず私がしてきたことを語ろう。1992年に福岡に赴任した。かつて香山壽夫が設計教育を担当した学科であった。自分なりの設計教育を考えた。最低限の論理性さえ確保すれば、あとは模倣芸術でよろしい。個人的にはそう達観していた。よくいえばそれが手段の自由をもたらした。
 日本のビルディングタイプ方式、フランスの課題解決方式ではだめで、アメリカ的な能力育成法がよかろうという直感から、坂茂に教えてもらったクーパーユニオン方式をカスタマイズした「キューブの課題」なる抽象空間構成の演習をベースとした。石田壽一と合流してからは、一方的な機能主義ではなく、プログラムと空間の循環を考えた。またビルディングタイプの分類ではなく、田園的、都市的、メトロポリス的というプロジェクトが成立する社会的、経済的な場そのものを分類して、カリキュラムを構成した。石田壽一からはアウトソーシング式を学んだ。常勤講師としてメタ課題を考えるが、具体的な課題は非常勤講師(故小嶋一浩塚本由晴、阿部仁史ら)にまかせるという二段階式である。ぼくも妹島和世、貝島桃代、故野口秀世、萩原剛、平田晃久、中村拓志ら20数名を呼んだ。彼らは私の先生でもあった。
 さらに末廣香織らとともに5大学合同ジュリイを構想した。これは1995年度からの「学生デザインレビュー」となった。数年のちに阿部仁史をとおしてせんだい卒計日本一を生んだ。以上はちょうどウインドウズ95以降の歴史にほぼ重なっている。ネットワーク社会の登場をそれなりに引き受けていたわけだ。藤村龍至はそれをひとつの歴史的期間として総括している。
 私は建築史学が専門なのだし、管理職的な立場になるにつれ設計教育からすこし身をひいた。すると古風なビルディングタイプ式が復活した。そのあいだにも学生の学力低下がめだった。首都圏の若手たちがアジア進出していったのに、九州の学生は地元志向となった。学生の変化に、教員たちはむしろ反動でこたえた。学科長になったので設計教育の見直しをもとめ、若手教員にWGで練ってもらった。ゼロ回答がもどってきた。永年やってきた、変えられない。問題は学生であり教育ではないという。資格課題をすませたのち内容を見直すという。私にとり壊滅的であった。

 ●自注:
 1995年以前というのが決定的に古く、隔世の感がする。なにしろそのころは頼まれた原稿をワープロで入力し、フロッピーにして、東京の出版社に郵送していたのだから。
 赴任して驚いたのは、学生にやらせていたテーマである。ある同僚は、東京の設計手法が約10年の時差をもって地方に伝わる、などという研究を学生にやらせていた。建築雑誌レベルでは日本全国は同期されていたが、工務店地場産業の意識がそのくらい遅れているという事情を説明しようとしていた。今なら世界からどのくらい遅れているかを研究すべきであろう。
 閉口したのは人びとの意識であった。「ここは地方大学だから」「ここは二流大学だから」などという、ご当人は殺し文句のつもりでいっている言葉を、繰り返し繰り返し聞かされるのはほんとうにつらかった。はじめはぼくも、東京から赴任してきた坊ちゃん先生と思われたわけだ。そして授業が難しすぎる、理想論的すぎるなどと何度も揶揄された。さらに西洋史の研究者が地方でやるべきことなどないよ、ともいわれた。すべてそのとおりであろう。
 ただ微力な一教員がそういう状況を改善できるわけでもない。そこで正統的な、オーソドックスな、自分なりの正しい道を貫くしかない。だから「原論的」な、いついかなる状況であっても有効でありうる方法論を探すのがよいと思った。
 とはいえ大多数の教員は、結局、自分がならった専門性や方法論を繰り返すのではないだろうか。ところがぼくは、留学していたボザール(パリ=ラ=ヴィレット建築大学)の方法論をとりあげるという考えはまったくなかった。普遍的なものを守るいっぽうで、目の前にいる現実の学生たちの資質から出発しなければならない。そこで思いあたったのが、北山恒坂茂であった。たまたま雑誌の仕事で会ったときに、力量を感じたので、彼らの方法論を学ぼうとおもった。それらを参考にしつつも、いわばゼロベースで、教育を組み立ててみようと思ったのである。
 矛盾しているようだが、原論的なものをベースにして、ゼロ組み立てる。なにかはあるわけだから「いちから」かもしれない。説明は難しいかもしれないが、基底が確保されれば、上部はいかようにも編集できるようにする。そのための手法として、坂茂に教えてもらったクーパーユニオン式を発展させてキューブ解題を案出した。まず立方体ボリュームを与え、その内部を自由に2~数個の部分空間に分節しなさい、というものである。そんなに特殊なものではない。その発展系はいろいろされていると思う。しかしぼくは重要ないくつか点のこだわった。
(1)ゼロからの創造はむつかしい。だからまず古今の傑作の作品解説をかならずやる。そのときに「空間の分節、その形式」という1点にこだわって説明する。これでリテラシーがすこし伝わる。
(2)機能主義を完全に反転させる。機能や社会的課題はいっさい与えない。ほかの指標も無視する。光だの、空気だのありがちな指標も排除する。とにかく「言語で説明できる形式」を与え、その「言語」を示せということをいう。そしてそれができたのちに、はじめて機能、プログラム、効果、などとしてなにがありうるかを考えさせる。体験的には、この方法で学生たちの創造性はほんとうに桁違いにのびる。
(3)教員は産婆に徹する。キューブ空間の分節などという課題はほとんど禅問答である。学生の脳裏にはまずぼんやりしたイメージが浮かぶ。それが真の出発点である。そして教員としては、その「建築以前的なもの」がどのように建築になっていくか、そのプロセスのなかで、学生に伴走する。そのときに専門家としてあらかじめもっている知識を総動員して、「君の考えついた空間形式はこんな意味をもっていて、これこれの類例があるのだ(がんばれ)」式の話法に徹するのである。同様に、しっかりした解説も求めない。幼児語を大人語に翻訳してあげるという労を惜しまない。
(4)教育はぜったいに不完全性、未熟性を批判はしない。学生が考えるのは「建築以前的」であるから、完成度から批判しようと思えば、教員はいくらでも批判できる。しかしそれは禁じ手とした。およそ学生が考えたもののなかには、なにがしらいいところがある。それをピックアップできない教師は能力不足である、と考えていた。その状態における学生は、一種の知的飢餓状態にある。だからそのときに、いろいろな(建築史を含めた)専門的な知識をあたえればよく吸収する。
 よく建築設計は正解のない問いである、教師も学生もフラットに考えよう、などというかけ声を聞く。よかれと思っていっているにしても、たいていは欺瞞である。教師は専門家だから、それなりに正義とあるべき理想をいだいている。だからフラットではなく、学生にたいして抑圧的である。ことに社会的プログラム云々の場合はそうである。
 以上はもう30年近く過去の話である。しかし当時でもこれを理解できたのは、同僚のなかでは石田壽一くらいであった。
 彼が去り、ぼくが管理職で忙殺されるようになると、先進的であった課題構成は、「一級建築士試験対策にしなければ」と、住宅、文化施設・・・型のものにもどされた。なじみの非常勤講師を10年以上よび続けるという教員が多くいる学科に逆戻りした。世代が交代するごとに大学はどんどんよくなっていると思っていたら、そうでもなかった。やはり去り時であったのだ。
 『建築雑誌』における建築教育特集なども、結局、各大学のカリキュラムを比較するなどの教育技術レベルのものではないかと思う。もちろん就職や産業構造の変化なども視野にはいっていていいとは思う。しかしグローバルな状況でなどと考えれば、より普遍的、より原論的、なベースを整備しなければならない。
 どうも説明するのはむつかしい。こういう喩えはどうだろう。従来の日本の設計教育は「建築をより建築らしくする」トレーニングは相当しっかりできていた。しかし「建築以前的なものを(上位レイヤーに上昇させて)建築にする」という視点がなかったように思える。これが時代の変化に追随することにおいて、諸外国から遅れる理由のひとつであるような気がする。
(つづく)