マルグレイブ『近代建築理論全史』

丸善出版の企画・編集部よりおくっていただきました。ありがとうございます。

 

これは有名なWEB建築サイトで書評を書くことになったので、送られてきたものである。だから、いずれくわしく書くので、ここであれこれ論考するわけにもいかない。

そこで建築「理論」についてだけ、考えていることを書く。一般的に建築史研究者が理論を分析するとき、よくあるのが、理論と作品がどのくらい一致するかどうかを調べることである。言行一致を計測するためか、物理学のように理論値と実測値のずれにより理論の妥当性を計測するためであるかのようである。ぼくは、これは端的にナンセンスだと思う。建築の場合、理論はそんなもののためにあるのではない。

 

すなわち実際に仕事をやってみればわかるが、建築は妥協の芸術であり、ピュアではなく雑音が多い。極論すれば、建築は矛盾をかかえ、のたうちまわるようにして制作されたものほど、じつは建築として迫力があり、それこそ建築のように思えるといった、パラドクスさえある。ましてや多産な建築家なら、思想家が思想を貫徹させるような、一貫した理論をもつことは、きわめて希である。では、それはどういうことか。

 

つまり建築にとって、理論も、作品である。作品のひとつの形態である。理論と作品は、矛盾する傾向があるばかりではなく、作品とは連動しながらも、べつの、独立した次元を形成することにこそ、理論の意味がある。建築家が、他者の介入により、作品を設計してゆく場合、その支配率は、50%、60%、30%であったりする。ではときに99%に純度を上げてみたいとき、現実の建設材料をつかわない、言語による理論を作品として制作するのである。言葉の建築、である。

つまり作品から乖離しているからこそ、理論には存在意義がある。

 

であれば、本書のような、建築理論が書かれていった歴史を、回顧し、俯瞰し、ひとつの歴史観においてまとめようとするのも、べつの次元のひとつの理論であろう。いや、そういう理論であるべきだ、あるはずだ、ということをいいたい。すなわちその次元においても、理論、あるいは思想性はあるかないか、あるとすればどうか、である。

 

ぼく自身の歴史観からすると、建築史、とくに西洋建築史は、建築書が書かれていった歴史であるとどうじに、それらが読まれていった歴史である。ときに建築書のまさに歴史的意義は、いかに読まれたか、いかに事後的に意味が付加されていったかによることも大きい。そういう意味で、本書をひとつの事例として読んでみることは面白そうである。