ロベルト・ガルジャーニ『驚異の構築』(レム・コールハースOMA論)

訳者の岩元真明さんから送っていただいた。先日はギアさんの講演会で協力していただいたし、かさねがさねありがとうございます。監訳の難波和彦さんにもよくお世話になっているので、Wで感謝である。

原題をThe Construction of Merveillesというのがまず面白い。意図的にMerveilleというフランス語を使っているのだが、驚異、不思議、超自然的現象、などの辞書的意味がある。英語のワンダーとは微妙に違う。ドイツ語のブンダーカマー(博物館の前身に位置づけられる珍品陳列室)は似ているが、こっちは珍妙さも含む。世界の七不思議はMerveille、東方見聞録は「世界の驚異の書」のことである。つまり驚異とは、いちおう世界のなかにあるが、自分の世界とはまったく異なる、縁のないはずの、違う原理で成立している、見慣れないものという意味である。コールハース建築の特質をよく言い当てているが、まあこれ以上の褒め言葉もないであろう。つまり美、崇高などをいわゆる「審美的基準」などというが、「驚異」とはあきらかに審美的、それがいいすぎなら、文化的基準、あるいは範疇なのである。そういう範疇そのものを構築するのはたしかに偉大である。

ガルジャーニはとくに、シュルレアリスムやロシア構成主義との関連を強調しており、ダリの絵画などからのイメージ的連続性を強調している。

ただし建築家の創作種明かし的なものにしてしまうと論としてはつまらない。しかし模倣論、ミメシス論の展開としてうけとると面白い。たとえばカトルメール・ド・カンシーは「タイプ」的な(原理レベルの)模倣と、「モデル」的な(そのままの)模倣を区別したのであるが、シュルレアリスムコールハースはむしろモデル的であり、原型とその模倣はむしろわいかりやすい。ただ並べて比較して、コールハースの建築は、原作品にある異物感、不思議感を、別の種類の異物感、不思議感に変換しているような感じがする。そういう意味では、そのままのモデル的模倣のようでいて、よくよくみると、タイプ的な、なにか奥底にあるものをとらえての模倣であると感じられる。

自然が絵画を模倣するのか、絵画が自然を模倣するのかという議論があった。建築は絵画を模倣するのか、絵画は建築を模倣するのか。そして既視感と見慣れなさが同居する不思議感である。

それはシュルレアリスムも、ロシア構成主義も、近代都市が誕生したときの最初の反応であると考えると、構図が描けてくる。つまり近代都市が誕生したとき、異様に巨大な公共建築とか、最新のテクノロジーを駆使した構造体とか、騒音とか、巨大な輸送機械のスピードとか、「驚異」が充満していたのである。(時間がないので乱暴にはしおると)それを芸術に変換したのが前衛芸術であったとすれば、それは近代都市への批判的解釈なのである。

それから、時間にすれば40年後、この「驚異」はレムコールハースのなかで摂取され、増幅され、変形して、さまざまな建築プロジェクトのかたちで、今度は逆方向に、現実の世界のなかに投影されてゆく。つまり世界と建築家の鏡像関係のなかで、「驚異」が増幅してゆくのである。

もうひとつ重要なのは、古典的なクライアント/アーキテクトの関係における「クライアント」概念を徹底的に拡大し、社会、大衆はおろか、経済システム、集合的欲望の次元にまで広げたことであろう。するとそれに対応する人間的次元は、とうぜん意識ではなく無意識な次元のものとなる。ここでシュルレアリスムが動員されることが、構造的にふさわしくなるのである。だから基準平面、非基準平面みたいな話と、シュルレアリズムのそれはスムーズにつながるのである。

大人の達観をもっていうと、これが近代建築の成熟だ、などということになる。

さて日本的な状況で、こういう成熟はいつくるのか。1920年代30年代あたりではろくな建築論はなく、せいぜい日本的なものの議論くらいであった。やはり戦後の丹下健三メタボリズムあたりが回帰すべきジャンピングボードとなるであろう。やがてそれらがヨーロッパにおけるアヴァンギャルドの役割をにない、新しい世代が登場する(のであろうか?)。