《芝の大塔建立図》

・・なるものが山口晃『すゞしろ日記』に描かれていた。建築のパーツを組み合わせたハイブリッドな構築物という構想である。もちろん夢の建築プロジェクトとしては、類例はある。テレビではハイブリッドな建築=橋が紹介されていた。ルクーの妄想建築を思い出す。

そこで反省するは、なまじっか建築学科で建築を勉強したために、構造的、論理的な整合性がないと建築を考えられないことになってしまう、建築人ということである。妄想建築を妄想するためには、その整合性とやらをいちど括弧にくくって、排除しなければならない。

たとえばテレビで紹介されていた、この画家による、現代の洛中洛外図のような都市鳥瞰図では、「線」により建物の輪郭やディテールは克明に描かれるが、「色」はそれら線をこえて、自由に、それ自身のひろがりをもつ。そう、漫然と町中をあるくとき、建物の一個一個は識別しようとはしないものだ。

帝冠様式における屋根の耽美主義もおもしろかった。建築人にとっては、屋根は建築の端部、終わりにすぎないが、画家にとっては空の始まりなのだ、という。

そのようなことで画家が描く都市鳥瞰図は、断片的なイメージの集積として、実際の時空を超越した蜃気楼なのであるが、いやそれがまさに、ひとりの「個」の意識のなかに世界が襞になってたたみこまれるということなのだ。なんとなればライプニッツモナド論のなかで、人が都市の姿を認識することの意義を、メタフォリカルに書いているのである。

そういうことを、ビールいただきながら、漫画をみるように、思い出すのもおつなもの。そういえば、ぼくもそのように、ゆるいおやじになりたかったのであろうか。バカボンのパパの想定年齢を超してしまうと、自分というタガ(他我!?)のはずしかたも巧妙にならなきゃね。

連休はありがたいものである。連休によむべき書である。