鈴木博之先生

去ってしまった彼について考える。

彼が教授に昇任したとき、助手であったぼくはまったく純朴に「おめでとうございます」と申し上げた。彼は黙って笑っていた。

彼はコミットメントする建築史家であった。それが本質であった。それ以外にはない。

建築史は、建築の現在と現実を含んでいながら、よりおおきな枠組みによって、それらを相対化することである。そうして現在と現実を相対化し、それを超越することである。しかし超えるといってもデタッチメントではない。よりよいコミットメントのためである。

建築史家としてのコミットメントは、いろいろな形態があろう。保存というバイパス。ヴィオレ=ル=デュクがそうであった。コンペの審査員という手段もある。伊東忠太がそうであった。国や自治体の委員という手段もある。批評ということも有効だ。

しかし個別研究に没頭することがコミットメントでないとは思わない。歴史ビジョンにより、建築に関わる人びとに理念をつたえ、それをとおして現実をかえていくのは、間接的だとしても、立派なコミットメントである。建築史に埋没しながらも、現実にコミットメントできるはずである。だからそのほかの建築史家は彼のようなコミットメントはしないであろう。

しかし、彼はある意味で建築史学を超えようとした。コミットメントのために。より直接、建築にコミットメントするために。そのためにあえて人脈を構築した。あえて権力を求めた。おそらく建築史以外の人びとは、それがゆえに、賞賛するであろう。しかし建築史の人びとは、賞賛するにしても無条件ではないであろう。

彼はコミットメントするために、あえて建築史から距離をとったと、ぼくの目には映る。「あえて」そうしたのであった。そしてそのことを背負ったのであった。

この「あえて」が彼の本質であった。だれもができることではない。ただそのことによって彼は苦悩していた。その苦悩は、建築史の人間にとっても、建築家たちにとっても、どうすることもできない、いや、気づくことさえできないようなものであった。

彼は絶望していた。ふかくふかく絶望していた。日本ロマン派を自称する彼は、自覚して自暴自棄にふるまった。だから権力志向であった。ときに偽悪的にみえた。たんにそうであったにとどまらない。日本の歴史の古層にある通奏低音のような精神が、彼のなかに生きていたのだ。

しかし、あえてそうしたということ、絶望していたということ、によって彼は支えられていた。絶望こそが彼のエネルギーであった。絶望ゆえにコミットメントしたのだ。それは逆説的でもあり、悲劇的でもあった。それは希有なことであろう。不純、偽悪、矛盾、力まかせ、などを含みつつ、それが聖なるものに昇華してゆくさまが、ぼくには見える。