山本理顕『個人と国家の<間>を設計せよ』

こんな偶然の繋がりが、あたかも必然のように出現するので、ぼくは建築の神様を信じたくもなる。

12月25日、クリスマスなのに丸一日演習だなあと思いつつ、メールボックスに、山本理顕さんから郵送されてきたコピーを発見する。『思想』2014年1月号に掲載された彼の標記論文である。閾論の展開が書かれている。あとで読もうとおもって、カバンにしまう。

演習室では2年生がまっている。敷地は天領日田の豆田地区である。近世の計画的な都市建設である。山本さんが論じた古代ギリシアのポリス建設とほぼ同じ論理構成である。その地区が、近代化の果てに、産業を展開し、替え、ツーリズムで外国人を招きながら生き残りをはかっている。

非常勤講師として百枝優を呼んだ。彼は、ぼくの研究室を出て、横浜国大で山本さんに鍛えられ、さらに隈研吾の事務所で働いて、もどってきた。彼の自作プレゼとその基本理論は、個の集積から、全体と個のあいだの中間レベルの秩序が生まれるというもので、基本的には山本理論と相似である。ただパラメーターはまったく違っており、独自である。

ぼくの課題は2年生にとってはかなり高度である。歴史的な街区のなかに、個々の敷地で住宅を設計しつつ、それが共同設計のレベルに展開し、そのレベルにおいて、ブロック内秩序、両側町的秩序、ブロックを横断する第3の露地秩序形成、公共建築ブロックと住宅ブロックとの境界領域の再整備という明快な、次段階の、都市秩序形成にむかわせる。

山本さんは、ハンナ・アレントの『人間の条件』から「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯(ノーマンズランド)」を、「閾」自説の読替とみなし、あらたな論の展開を示す。古典的ポリスにおける公/私と、近代資本制におけるそれとの根本的な相違が指摘される。

それらはぼくが学生に課した設計課題の根本をつくものだ。ぼくなりにうけとると、近代国家はまず個人と国家のあいだにある中間段階を弱体化し、さらに資本制は個人=消費者とすることでそのシステムのなかにおいて個人を徹底的にアトム化する。これを批判するために、山本さんが示した古代ポリスという例も、世界の集落も、ぼくの同僚が選んだ天領日田も、どちらもすぐれたテキストである。

学生は出題意図がのみこめない。そこでぼくは、大地に線をひき、土地を区画することが、社会制度であり、政治であり、経済であり、法律であり、設計であり、建築の端緒なのだ、と説明する。都市史や土地所有制度といった「専門」に触れなくとも、まず土地に線をひくという初源の営みを追体験すること。地割線をトレースするという、即物的な準備のなかに、ほとんどありとあらゆる世界了解が含まれていると(もうちょっとわかりやすい言葉で)説明した。

過去において個人のアトム化というこの構図を批判した人びとは、公共圏や擬制としてのコミュニティを想定した。しかしこれらの経験も、近代というフレームのなかに飲み込まれ、批判というより補助的な役割をはたすようになった。

ではこの中間レベルにおいて役割を果たす可能性のあるものは、なんだろうか。ぼくは個人的に信じているわけではないが、宗教には注目していい。すなわち宗教は、そもそも社会秩序を構成しようというものであったが、まさに近代において、まさに「私的」領域に封じ込められたものであったからだ。そしてこの封じ込めへの反動が、近年における地球上のさまざまな動乱の背景にある。

山本さんは論文の最後にふたたびアレントを引用する。「世界は、そこに個人が現れる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る」。この最後に唐突にあらわれた言葉である「世界」。この「世界」はあきらかに、個人、国家、社会、資本を超越するものとして、あえて説明されずに語られる。それは個々の宗派をこえた普遍的意味を指向する宗教(性)なのではないか。