絆?

 ぼくが勤務する学科が「絆」をテーマとする公開講座を開催するというので、かりだされた。きのう、自分の当番をこなした。

 こういうときは自分のための勉強もすこしはして、前向きにやってみるものである。だからなつかしいアンリ・ルフェーブルや、最近はやりのデヴィッド・ハーヴェイを読み直したり、未読のものをぱらぱらめくってみたりして準備したら、けっこう面白かった。

 とくに数年前に翻訳がでた『パリ---モダニティの首都』も再読したらやはりおもしろかった。それに平行して彼の新自由主義批判の書もいくつか新読・再読してみた。

 けっきょく、こういうことか。ハーヴェイはとくに90年代と00年代の新自由主義を批判している。それは過剰資本・過剰労働力がもたらす不安定さの指摘である。そして『モダニティの首都』では、その不安定さの最初のモデルがフランスの第二帝政時代(19世紀中盤)として紹介されている。後者にかんしては経済・社会・政治・そしてアート・建築分析にまでおよび多面的包括的に論じていて、領域横断的ですごい力量である。

 そこでもうひとつ、鈍感なぼくはやっと気がついたのだが、なぜ第二帝政か。それはハーヴェイが教祖とするマルクスは、まさにこの第二帝政、つまりまず二月革命があり、ナポレオン3世が金融資本と結託して資本主義を発展させオスマンに命じてパリの都市プロジェクトを展開し、都市を流動的資本の投下先とし、その結果、内戦の大災禍をまねいたその一部始終をロンドンから注視していて、それへの批判、危機意識から『資本論』を書いたのであった。つまらないはなしだが、マルクスはナポレオン3世より10歳ほどわかく、この年齢差は、若い批評家が権力者を批判するのにもっとも血が騒ぐ状況なのはよくわかる。

 だからハーヴェイが新自由主義批判をする状況は、マルクスが理論体系を構築していた状況と、ほとんど相似なのだねえ、といった話である。

 ところで「絆」?

 いろいろ話したいことがあったが、持ち時間の20分の倍も話したので切り上げてしまったのだが、近代産業社会を構想したサン=シモン主義の思想のなかに「資本のアソシエーション」という概念があったらしい。これは資本の絆?のようなものではないか。

 グローバル化EU統合の時代に、サン=シモン主義は再評価されているらしい。原語で専門外領域の文献を何冊も読みこなす余裕はまったくないのだが、部分的にかじったことによると、サン=シモン主義はネットワーク、循環、流動といった根本原理から地球を再編成するというおおきな構想をもっていて、だからこの基本構造に関連するのが、鉄道、通信、運河などであり、そこで流通するのが金、人、情報などである・・・・というように書くと、それは常識だね、ということになるが、でもツーリズム、金融、通信などの今ではありふれたものの背景にある根本原理って、やはり哲学的なものなのであろう。だからサン=シモン主義はフランスのテクノクラートの理論的支柱になったりしたのかもしれない。

 これはいろいろなアプリを考案するときに、OSに遡及して構想するといったようなことだろう。

 講演のあとで同僚の先生たちと雑談したが、人と人の絆は、神を媒介するといった構図を念頭におかなければなりたたない、という理解でいる人は多いようであった。ただ神はいいのだけれど、それはどんな神か。特定宗教の神か。そうではないのではなか。では神の代理か。神という比喩で表象される超越的なものか。・・・などと考えると、資本というのは一種の神ではないか?などということにしたって成り立ってしまう。個々人の財布のなかにあるお金を、銀行に預けると、相互に見知らぬ人びとのお金が「絆」によって結合され一種の「アソシエーション」を形成して巨大化し、都市プロジェクトに投資されるという平板な構図のなかに神的次元がすでに含まれているのではないか。資本が極度に流動化すると、それは地球上の水のようなもので、「水」はひとつしかなく、自分が手にするコップの水はその全体の一部なのであって、だから西洋の言語では部分冠詞をつかったり・・・・。はたまたデカルトホッブスが、近代的個人、近代的社会を構想したときに、「光」という普遍的なものを媒介にして、宇宙から人間の精神までを一気に説明しようとするその理屈っぽい議論にもなにか似ている。

 もうひとつは他のパネラーが指摘していた、ネット社会におけるコミュニケーション依存症。これはギブアンドテイクにおける他者依存症、いつも他者に認めてもらわないと自分が崩壊してしまう現代の病である。これも帰りの電車のなかで考えたが、その時のコミュニケーションというのは同時代の・同期の、つまり時間を共有する他者とのコミュニケーションであるのは明らかである。それでよくよく考えたら、ハーヴェイがやっているのはマルクスへの通信なのではないか?マルクスとのコミュニケーションなのではないか。そこで教訓。コミュニケーションは「同期的」・「双方向的」がいいとは限らない。そこには異期的(こんな言い方があるのかな?)・「片方向的」が含まれるべきである。神の存在はその次元にたちあらわれるであろう。

 こういう難問を考えるのはぼくの専門(能力?)ではないので次の機会まで放置しておくのだが、オーディエンス発言や打ち上げ飲み会の議論などというものになってしまうと、日本人同士で話し合ういわゆるムラ的議論になってしまうのであって、これまでもしばしば指摘されたように、超越的議論にはなかなかならないようである。しばらく観念論的遊戯としてだらだらやっていくのも面白いだろうが、でもそうすると公開講座として社会的責務?はすこししか果たせないだろな・・・・などとゆるゆると愚考はつづくのであった