ル・コルビュジエ『パリの運命』

1941年に出版されたものの翻訳を、訳者である林要次さんからいただきました。ありがとうございます。

ナチス占領下のパリを離れ、疎開先からパリの将来を構想した文献である。

パリが二重の危機において案ずべきものとされている。ひとつは近代都市計画との相関であって、20世紀パリにあっては、郊外化、すなわちパリ拡大路線へと踏み出したことである。ル・コルビュジエは、田園都市、郊外の拡大を、過酷な通勤移動というような理由から、根本的に否定する。市内を大改造することを彼は提案し、まず東西貫通の高速道路を提案している。これはオスマンのパリ大改造を踏襲するどころか、むしろナポレオン時代の理念を拡大して継承しようという雄大なもので、戦後それはセーヌ川沿いの路線として実現されている。さらに当時の懸案であった不衛生街区の改良案をも提案している。

もうひとつの危機とは、もちろん占領であり戦争であり、一種の防空建築、防空都市を提案している。これは20世紀初頭にインターナショナルな次元の理念であったグリーンベルト構想が、戦時中は防空都市化としてすこし意味を変容して発展させられたことに似た経緯であろう。

ル・コルビュジエは政治的には無節操であったという解釈が一般的でなのだが(一部には、いやしたたかに政治的であったという人もいるが)、どちらにころんでも建築家としての理念を実現しようと思えば、本来は政治的であるしかない都市の問題を、具体的な提言としては実世界とかみあいながら、あたかも政治を超越した高次の次元の問題であるかのように論じる、都市なり建築のイデアであるがごとくしか建築家は論じられないのであろう。

コンサイスな文献だが、原テクストと同じ分量の解説が追記されていて、このようなスタイルはこれから多くなるだろうと思った。訳者はとくに1902年法や不衛生街区との関連をくわしく説明しているのだが、そのとおりで、ル・コルビュジエは現実の都市や都市計画の諸問題に、きわめて敏感にかつ的確に反応したのであるし、ときには公式のプロジェクトへのカウンタープロジェクト的な意味合いさえもたせ挑発的行為を忘れなかった。ただ日本人建築関係者の一般的理解のレベルでは、ル・コルビュジエ対ボザール、ル・コルビュジエ対(なんとなく)保守派、といった漠然とした理解にとどまっており、じつはル・コルビュジエは挑発行為を繰り返しながらしかし現実に懸案となった都市プロジェクトをくわしくスタディし、しっかり反応していた。つまりよりよくル・コルビュジエを理解するためには、むしろ保守的と思われていた流れをもっと深く理解する必要がある。この訳者解説は、そのためのもので、たいへん的確でこなれている。

それはそうとしてなぜ1940年、フランス政府はパリを無防備都市として宣言したか。パリの19世紀は、オスマンの大改造の時代であったが、どうじに内戦の時代でもあった。とくに『パリの運命』のたかが70年前(1945年から2012年までが67年!)にすぎないパリ・コミューンでは数万人のパリ市民が犠牲になり(その鎮魂のモニュメントがサクレクールである)、おおくの建物が破壊された。それ以上破壊を見ることに耐えられなかったのであろう。3年ほどまえにパリでそのパリ・コミューンの写真展を見たし、最近『破壊されたパリ』というグラフィックな文献も出て、興味深い。留学時代、撤去されない廃線があるので専門家に尋ねると、「戦争がおこったら必要になるからね」という説明がかえってきた。石で固まった都市という見方も、外国人の先入観なのであろう。

『パリの運命』のなかのル・コルビュジエのテキストを読むだけだといまや純朴もいいところにように思える(なにしろ爆撃で破壊されるまえに都市計画的にクリアランスしろというのだから)のだが、本音では何を考えていたのだろう?