平田晃久さんと中村拓志さんの設計課題

1週間をおいて、おふたりに大学にきていただき、3年生の設計課題をみていただいた。1泊2日のショート課題そのものをだしていただき、自作スライドショー、講評までしていただいた。

平田さんは、建築家として作品中心の語りをされているようだが、理論派でもある点については、遠慮している感じである。スライドショーのなかでとくに面白かったのは、勾配にそって水が流れるという点で山と屋根はおなじロジックにしたがっているが、そのとき屋根=人工物を制作する人間はたんなるエージェントにすぎないという指摘や、ミラノサローネ太陽光パネルの作品についての説明で、人工物であろうが自然物であろうがエネルギーの流れという意味では差はないというような指摘である。そこでぼくが思い出したのはデカルトの次の世代の哲学者マルブランシュの「神において見る」というような概念であったのだが、この連想があっていようがはずれていようが、平田さんの概念に近いのが17世紀の合理主義であり、機械論的宇宙論人間機械論のような概念において、重要なポイントはそれらは神が創造した機械であり、超越がそこに含まれている点なのであるが、平田さんはその域に達していると感じた。理屈っぽい建築家はときどき敬遠されるが、平田さんは理屈派ではなく大文字の理論派であるように思う。

中村さんは、WEBやなにかで拝見すると、理論構築はあまりお好きではないようである。今回の課題の内容をみても、既存の機能やプログラムの概念には頓着しないで、人間の所作や行動のなかから、まだ定式化されていない、しかし重要な要素を見いだして、それをコアにして空間を設計せよというものであった。中村さん自身は、そういう原論的なレベルと、設計ビジネスでの成功が、距離感なくダイレクトにつながっている。学生からすると、こういう課題はそれこそ根本的なものであり、考えようによってはもっとも難しいものである。設計には指標が必要である。通常の課題では、いくつかの指標が与えられ、学生はそこからスタートする。しかし彼の課題は、まずその指標を学生みずから発見することから始まる。そこでは課題を解くことではなく、よりよい課題を提案することが重要となる。だから機能、プログラム、行為などにかんする既成概念をいちどペンディングするという試行をしなければならない。学生たちの当惑した表情がとても印象的であったが、3年生の時点でそういうことを体験できるのはラッキーである。この解題は、かならずしも理論的でないとしたら、根源的である。

そういうわけで平田さんは演繹的アプローチ、中村さんは帰納的アプローチなのかもしれないが、そういう対比的な課題を学生たちにだせたので、教師としてはたいへんよかったと思っている。

夜、酒の席でおふたりにたずねてみたのだが、1970年代前半生まれ世代のことである。この年代には優秀な建築家がとても多いのでぼくも注目している。1994年だったと思うが、2~3の大学の卒計展をみて、そのレベルの高さに驚いたものであった。その時からこの世代には注目している。将来、日本の近現代建築の通史を書くときに、この世代はコアのひとつになるであろうとずっと思っていたし、そうなりつつある。大阪万博からオイルショックまでのあいだに生まれた建築家たちには、なにかがインプットされているのであろう。・・・あいにく世代論にかんする収穫はそれほどでもなかったが、おふたりとも、1年おいて会うと、プロジェクトの数もスケールも飛躍的に充実していて、すごいなあと思うし、学生たちもまたおおいに刺激を受けたと思うのである。