イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

会議と入試に満ちた素晴らしい一週間が終わろうとしている。日曜日。図書館にいってしばらくたたずむ。書籍を数冊かりる。帰りに点眼薬を買う。花粉対策である。

名作、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』がたまたま目にとまったので、借りてみる。ずっと昔に読んだはずだが、ほとんど忘れてしまっている。ほとんど初読だろうが、そのあいだに都市の認識も、都市そのものもおおきく変わってしまっているから、楽しみは大きかろう。

マルコ・ポーロが旅したさまざまな都市をフビライに語る、という物語である。マルコははじめ東方の言語をあやつることができなかったので、身振り手振りからはじめた。つまりディスコミュニケーションが出発点である。そしてここでは都市とは「語られる」対象である。見えない都市、という表題は、むしろ語られることを意味している。都市は見えない、というか見ることができない、というのが都市である。

幻想小説などといわれるが、マルコとフビライの会話そのものはむしろ常識的である。語るというのは過去をかたることなのか未来を語るのか、訪れた都市でみる偶然の他者の人生は可能性としての自分のそれだ、などというくだりである。

ぼくには、奇想に満ちたそれぞれの都市よりも、マルコとフビライの会話空間のほうが意味があるように思える。つまり個別/普遍、体験/鳥瞰、移動/帝国という不動、といった対立軸を彼らは具体化している。『「・・・朕にとって重要なものはただアーチだけである。」ポーロは答えて言う。「石なくして、アーチはございませぬ。」』なとというくだりは象徴的である。さらに強引に解釈すると、マルコは世界各地の都市でリサーチして都市プロジェクトをたちあげるコールハースのようなグローバル建築家であり、フビライはそのグローバル資本そのものを代理代表する立場にあったりして。

フビライは地図をもっている。そこにはイェリコ、ウル、カルタゴといった過去の都市もしるされている。しかし同時にニューヨークといった、彼らにとっての未来都市も、太陽の都、ニュー=ラナークといった挫折したユートピアもしるされている。だからカルヴィーノは神話的過去の都市から現代都市までを論じるのであるが、そのための視点を13世紀ころとし、マルコとフビライとの会話をとおして語らせる。フビライは、大帝国の支配者として、とりあえずは20世紀までの道筋は知っていたのだが、それでも、どうもそれが地獄への歩みであることを知っていた。そしてマルコにそれにたいする達観を語らせるのである。

さてこの類の作品は分析しすぎるとつまらなくなるものだが、ついでに借りたピエロ・ベヴィラックア『ヴェネツィアと水』岩波書店、日本語版は2008年)で、ヴェネツィアがいかにラグーナの陸地化や逆に水位上昇とたたかってきたかを知ると、まさにヴェネツィアが一種の奇想都市であって、いやヴェネツィアだけでなく、都市全般がそもそも奇想的な存在であることにあらためて気がつくのである。さらについでにBevilacquaさんのacquaはたぶん「水」を意味しているのだろうね。