なにしろ建築学会西洋建築史小委員会なのでこういうタイトルである。磯崎さんと(西洋)建築ではなぜだめかなどとも釘をさしたのだが、たいへん盛り上がった充実したシンポとなった。次の企画も準備がすすんでいるそうで楽しめそうである。
稲川さんの作品分析、五十嵐さんの『建築談義』解説、印牧さんの建築史家×建築家論争の構図、本田さんのソ連(ロシア)建築の文脈など、多角的で刺激的。
なぜかぼくは最後のまとめをさせられた。長話は老人っぽくなるので手短にすませた。
そこで話したことというより、拝聴しながら手許にメモしたが話さなかったことを書いてみる。
磯崎さんに思想がないわけはないが、ぼくはわりと無頓着である。彼において際立っているのはむしろ「思考様式」である。彼をコンピュータないしAIに見立てたときのアルゴリズムである。そしてそれは彼自身がさんざん言ってきたことである。
つまり磯崎さんにとって建築には始まりも終わりもない。根拠もない。主題は不在である。決定不可能性である。目指すべき目的も目標もない。すべてはプロセスである。っそれらは最終的にはanyに収斂する。すなわち任意的である。ちょうど関数y=f(x1, x2, x3,...)において、x1, x2, x3,...は変数である。変数はいかなる値をとってもいい。建築家が操作するのはfなのである。
磯崎さんは建築への惜しみない愛にみちていると、ときどき近くで見ていたぼくは実感する。およそ人がなんらかの工夫をして実現したものにはなんらかの価値があるという感覚である。だからx1, x2, x3,...という変数がいかなる値をとろうと、fは絶え間なく変化しつつしかも一定である。
関数はある値をとってもいいし別の値をとってもいい。だから建築家は「切断」という介入をして建築を実現する。
デミウルゴスあるいは造物主は自画像でもあり建築家のモデル化である。そしてこの自己語りは必然的に自己言及的であり、自己参照的である、再帰的である。彼は変容してやまない建築を経由してつねに自分に回帰する。だから結末は自画像としてしか描けないのである。
磯崎さんにおいて特筆すべきはリミッターをはずしたということである。スタイルも思想も、方法論も、目標も、なんであってもいい。それでも建築はやはり建築である。
・・・このようなことは今までさんざん語られてきたかもしれない。しかし磯崎さんのいない世界となってしまって、その影を追い続ける私たちは、それは出口のない世界として感じられるであろう。磯崎さんという啓示であり呪縛である。
*写真はフィルムの時代に撮影した北九州美術館。建物の窓からその建物のいいアングルを見る。このように自分を見よ!という指令。