50年たち三島由紀夫の虚無について

ひさしぶりに都心に出向いた。世情ゆえに電車はすいており、着座しての読書時間を得た。大澤真幸三島由紀夫 ふたつの謎』2018、kindle版を読んだ。
 かなり入念に論理構築された書である。組み立てもすぎると躍動感がかえってなくなるが、本書は最後まで飽きさせずいっきに読ませる流動感に満ちていた。
 あくまで個人的関心から切り取ると、三島由紀夫における認識/行為の葛藤という構図がベースとなっている。すなわち透徹した認識からすれば世界は無根拠であり虚無だということになる。しかしそれにたいし、行為はないと思われた根拠を刹那であってもつくりだす。このことを大澤は記号論シニフィアンシニフィエや言語論的転回(意味があってそれが言語化されるのではなく、言語が逆に意味をつくってゆく)などを引用しながら濃密に説明してゆく。
 三島の自決は1970年であった。それから半世紀して2020年の今にいたっている。その意味づけや歴史的位置づけはいろいろなされたが、いまだにまだ語り尽くされていない。さらに三島に感化された上の世代の思想も、いまだに謎めいている。そのような拡張された意味で、いつまでたっても腑に落ちない対象でありつづけている。「謎」とはそれを率直に言い表したものであろう。
 個人的に思い出すのが虚無の時代としての、その1970年代である。虚無の1970年代。それは共有されたものと思いきや、1960年代生まれのバブル謳歌世代には理解してもらえない距離感を体験したことはあった。しかし1977年に、建築界を代表する教授たちは、近代建築は「虚構」であり、それが崩壊すると指摘したのであった。
 熊野純彦三島由紀夫』2020、のほうが文体は好きである。哲学者は作家とはりあおうとしているかのような、気取りのある文体をつかっているように感じられる。哲学者は三島の虚無感をこう説いている。世界は刹那々々に誕生し崩壊している、と。古代ギリシアにすでにあった世界観をすんなりと当てはめている。
 カミュは『異邦人』『ペスト』などのなかでやはり虚無を論じている。ときに不条理と言い換えている。世界の根拠のなさのなかで、人は他者をあやめ、疫病で命をおとし、あるいは生き残る。ただ救いがないようにみえて、舞台が地中海沿岸ということもあり、それでいいのだという達観が垣間見える。しかし、もちろん、それが成立するのは19世紀と20世紀の動乱を背景としてはじめてである。この近代という時代に、世界を世界たらしめているという大理論が構築された。このことを背景におけば、虚無は弱々しい絶望ではなく、積極的な意味をもっていたことがわかる。
 大澤もまた虚無の反転をかいている。虚無は一般的にはネガティブなものとみなされるが、読者なりに言い換えれば、虚無もまた内在的な論理によってまったくの虚無ではありえない機制がある。彼はそれについて書きながら、三島を乗り越えるようなかたちで、三島をより深く説明している。そのように感じられる。
 1970年代の虚無感にたいし、半世紀たってやっと反応できたということだろうか。