Taku Sakaushi, Architecture as Frame and Reframe

坂牛さんから送っていただきました。ありがとうございます。

彼とは学会の委員会でごいっしょしたていどのコンタクトであるにもかかわらず、PORTFOLIO 1989 2016なる直裁で飾り気のない副題の作品集をおくっていただき、教授会のさなか見いいっていたものであったが、禁欲的な引き算的、ミニマリズム的設計ではなく、あらゆることに設計をおよぼしてゆく博愛主義者なのであろう。

学派のスタンプをおすのは好きではないが、デイヴィド・シュチュアートもそうしているからいいと思うが、東工大的なものを継承しているという点で、正統派である。

つまりふたつの空間(図式)、あるいはふたつのボリューム(システム)の、交差、重複、ずれ、などとして全体を構想するやりかたである。

篠原一男は全体をひとつの簡素なボリュームとするが、そのなかに独特のボリュームを構成し、残余の空間にも積極的な意味を与えるのだが、この図と地の関係は、みつめるうちに逆転することで、ふたつのボリュームの関係となってゆく。百年記念館は、立体相互貫入というより、内部に潜んでいたボリュームが、外のおおきなボリュームを突出してゆく、その関係の変化というように感じられる。

坂本一成もまた家型の素朴な外観と、内部の空間連鎖図式との独特の相互関係があった。機能どうこうというより、そのゲシュタルトを知的に読み取るという快楽が、読者には与えられるのである。

坂牛の場合は、2系列はより等価に近いが、それらはより自由に、よりのびのびと自己主張しながら、両者のあいだの間隙、相乗効果、重なり、ずれなどにより豊かな効果をうんでゆく。こうした方法論は、ボリュームを言語とするとはいえ、19世紀的な意味でのスタイル、すなわち歴史的様式の引用という意味のそれではなく、多様でひとつひとつはまったく違っていながら、全体の統一性、理屈以上に感覚や印象のレベルで感じられる首尾一貫性という意味で、ひとつのスタイルに昇華されているといえるであろう。

というように考えると、表紙が緑文字の"PORTFOLIO"と黒文字の"Architecture as..."とが二層レーヤーでオーバーラップしているのも、さもありなんと、納得してしまうのである。