片桐悠自『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』(2024)を読んだ感想

ロッシについては福田晴虔や三宅理一が関連図書を訳しているし、八束はじめは関係の深いタフーリの日本への紹介者であった。だから先輩が担当するものとして、ずっとぼくの興味の外にあった。ただ最近、片桐さんら若手がロッシに関心があるらしいことを知って、研究史的に、それは新しい時代を象徴しているかどうか考える気になった。

かつてアルド・ロッシには興味がなかった。そこで片桐さんの本を鏡にして自分自身を懐古的に分析してみよう。建築史研究を志した院生時代、特定の対象や特定の建築家ではなく、建築史そのものが興味の対象であった。だから研究の方法論や研究史には興味があって、それは今まで続いている。具体的にはトマス・クーンのパラダイム理論や科学革命の構造論、フーコーサヴォワール(知)論のようなものが建築史で書けないかどうか模索した。だから建築アカデミーなのであった。個々人をこえる「学」を批判的に分析するのである。それがモチベーションだったので、建築家のモノグラフなどというものは下位のテーマであり、それをものす研究者は研究データをぼくに献上するありがたい人びとくらいに考えていた。だからそもそも建築家個人にはまったく関心がなかった。今考えると傲慢すぎて謝罪しなければならない。

ロッシはというと、同年生まれの磯崎新と同様に、おおまかにはポストモダンの範疇にはいるであろう。ただポストモダンはジェンクスによる1977年の造語である。そもそもそれにいたった経緯を考えると、反近代思想、日本なら加えて反西洋、なども背景にある。とりあえず指摘するにとどめる。そうした思潮は上の世代なら共有していたであろうが、すくなくともぼくはニュートラルであった。

片桐さんはロッシのひとつひとつの概念をとりあげ、引用し、背景や、影響や、同時代現象をくわしく具体的に、かつアカデミックなレベルで説明している。学術的にはたいへん優れている。多くの新しい項目も加味している。申し分ない。ところが通読してゆくと、総論的な俯瞰があまりなく、詳細な論述がえんえんと続く。ゴールがはやく来てくれないかなどと思ってしまうのは不徳のいたすところである。

読者の特権である読書感想の範囲内で総論を考えてみる。ロッシが建築を語るときのさまざまな概念。長いキャリアのなかで言葉が多少流転するのはあたりまえだ。幾何学、記憶、類推、少年期の喪失・・・。

ところがぼくは個人的な体験から、古代ローマ遺跡が残っている多くのヨーロッパ都市のことをおもって読むと、どれもすんなり理解できる。そこで遺跡の幾何学は集合的な記憶であるというのは、まあ現実そのままなのである。デ・キリコの絵もそれにちかいように。

個人的に気になるのは《暗殺された建築》の絵(p.274)である。廃墟画をわざと子供っぽく描いている。少年時代の喪失の話(p.298)とあいまって、イマジネーションをかきたてる。現代日本でも子供への建築教育が盛んだ。やがて子供時代の想像を実現する作品もあらわれるのだろうか。日本でいうコンバージョンはかなり即物的な用途変更をうけてのことというのがだいたいだが、西洋では文明の崩壊と再生、革命の前後、政治体制の交代などという重大事件を反映している。ロッシら平均的ヨーロピアンはそれも日常的風景なのだが。かつて招かれてパリで建築シンポジウムに参加したとき、彼らは予定をはみだして黙示録について語りあいはじめた。文献ではわからない彼らのイマジネーションとして面白かった。

とはいえロッシがいっているのは、目の前の西洋都市よりも、さらに人間の脳内、認識能力のことであろう。建築が人間の記憶のなかにどう保存されどう思い出されるかだ。脳科学などはまるで不案内なのだけれど、人間の脳はネットワークでつながれたコンピュータによる分散処理システムらしい。そこで昔考えた。人間は比喩する能力がある。これはランダムですべて断片的な記憶のなかから、類似や、対比や、さまざまな関連づけの操作により、離れたふたつの記憶片になんらかのリンクを張る能力なのだそうである。類推とは、脳外の都市AとBの類推とは限らず、脳内の話であり、人間の能力の話である。そう考えるとロッシはすごく自然なことをいっている印象になる。将来的には「記憶」は集合的どころか巨大なサイバー空間に宿り、AIという方法論により関連づけられるのだから、類推とはポストヒューマンの方法論にもなるであろう。

たほう実・虚・水の3種類のキューブの話は説得力がありこれもすんなり読める。若干の不満をいえば、そもそもプラトン的立体はイデオロギー自由、意味自由なものとされる。それが3種類に分類されると意味を担いはじめてはいないか。さらに該当する全作品を分析して類型化し・・・などは建築学会的すぎやしないか。ギーディオンもロウも理論を立証するときでも数少ない例を深掘りするというやりかたである。そのほうが深みが与えられるし、味わって読めるものだが。

いろいろな主題について考えさせられる。貧しさ、ガララテーゼ、社会住宅、人民などについてはヨーロッパに共通する19世紀末から20世紀初頭の社会住宅の流れをバックにすればもっと平易に読ませられると思う。個人的に考えることでいえば、フランス革命以来、フランス人、人民、労働者、市民、国民などと使い分けるなかに社会(主義)政策の実相が浮かび上がるのであろうし。

ロッシはまたカトリックでありコミュニストでもあったことの説明は面白い。ヨーロッパにおけるコミュニズムの立場はいろいろである。宗教学のエリアーデコミュニズムを黙示録的だと思っていたし。コミュニズム=科学としか受け取れなかったのは過去の日本であったし。

そのほか、聖なるもの、生、生命の概念について触れているあたり。ぼくも愚著で書いたので、興味はわく。今のところロッシ論のアネクドットのような位置づけだが、もっと深めてもよいテーマであろう。

若いとき、ヨーロッパの大学教授は想像した以上にはるかに庶民的だなという印象をもった。たぶんロッシもそんな感じの人だったのだろう。最後のほうのエピソードでそう思った。

たぶん彼の用語を日本語にするときに生活感覚からかけ離れてしまうので、実際以上に衒学的な建築家だと誤解されてしまうのかもしれない。

今回はD論の延長だということだが、さらに成熟して格段上のものにできそうな気もする。

*追記

先学を批判したくはないが、これまでの訳語はあんまりよくなかったのではないか。

絶対性(アソルタ)や自律性(アウトノミア)からは、ぼくなら、たとえばルッカの楕円形広場は古代ローマの闘技場の輪郭がそのまま残っていることを連想する。群島(アルチペラゴ)は、ローマ都市のインスラとは島にして街区ブロックであるということを連想させる。ならもっと気の利いた意訳もありそうだ。

「類推的都市」とは原語を英語にして「アナロジー都市」としたら、人間の脳の基本能力であるアナロジーによってとらえた都市、という意味が強調される。「類型」的もおなじでたんにティピカルといったほうがしっくりすることもある。漢字で類型と書くとなにかしっかりした類型学があるような雰囲気になる。

その点「見えない都市」は秀逸で、実在する都市が透明だといいう意味ではなく、人間がただちに認識できない領域に都市(性)がひろがっているという意味にもなるからである。

哲学は本場では日常的世界のそのままの延長だが、日本語になると漢語的に衒学的になるというまさに構図があるような気がする。