青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する』感想文

建築界でもいくつか言及があったので読んでみた。拙著で生・生命・生活について粗末な論考をしたその興味からでもあった。
「美学」の説明としては18世紀のカント美学が今も基礎であるという視点から、それとの距離もとりつつ、最近の日常美学理論をわかりやすく紹介している。日本の近代建築にかんする美学について講演会やなんかで拝聴していると、こうした基礎的なことが欠落していることが多いので、参考になった。
カント美学はほんの入口である。イス、美的性質(性質≠カテゴリーという点が肝要)、料理、地元に触れ、最後にルーティーンを論じている。最重要と思われるこのルーティーン概念について、最新学説を紹介しつつ、論じている。
大学の講義をまとめたものらしいので、過度に詳しいことも書けないようだ。それでもしっかりド・セルトーや生活改善運動などに、さらには東京駅や新宿駅などに言及している。
さわやかに読めた。あまりさわやかでない雑考をいくつか。
「日常」と「芸術」を対比的にあつかっている。しかし20世紀初頭に近代的生活が確立されつつあったとき、すなわちルフェーブルが『日常生活批判』を書いたころは、「日常」と「非日常」の対比であった。すなわち19世紀のロマン主義がむしろ「非日常」を評価したのにたいして、20世紀は「日常」を重視した。「芸術」はどちらかというと非日常の側に位置づけられた。
すなわち日常/美学という二元論そのものの射程や可能性である。日常/非日常、ハレ/ケなどはすでに消費済みである。しかし日常美学はいわば新しいカテゴリーの提案であるようだし、過去の二元論とも違っていそうである。
概念の遊戯としては「日常」と「生活」はどう区別されるか、はたまた日常生活とは厳密にはなにか(非日常生活とはなにか)?興味がわく。
著者は「ルーティーン」に本質的な「終わりのなさ」を評価しているようである。ぼくも住宅史研究もすこしやったので同感できる。しかしSNSのショート動画を見つづけると感覚がおかしくなるように、人間の意識はやはり「終わり」を求めるのではないか、というのもぼくの日常から得られた教訓である。だから演劇や映画のような終わりを明示するものを鑑賞してカタルシスを感じるのではないか。もちろんそういう芸術(終わり)は虚構ではある。しかしすくなくとも終わりを体験することがもたらすカタルシスは意味をもっているような気がする。
とはいえ、著者が指摘しているように、日常/芸術の二分法はカントが規定したものであり、およそ美学そして建築がその上で成り立っているのだから、自分の基盤をくずそうとする議論でもある。すなわち日常と美学の境界というより、美学そのものの変容も考えるべきなのであろう。