この人を見よ(磯崎新建築論集8)

磯崎新は解体された建築と、不在となった主題にもかかわらず、デミウルゴスとして建築する。建築を制作するとも、建築を思索するともいえない。まさに「建築する」。ちょうどニーチェも、神の死と、ルサンチマンとしての信心にもかかわらず、超人ツァラトストラとして自信に満ちているように。この人を見よ。そう、ぼくもこの人を見てきた。勤勉ではなかったが、ときどきは気合いをいれて見てきた。そしてその像はどう結んだのであろうか。

磯崎新建築論集8 制作の現場』が編集した豊川斎赫さんから届いた。ありがとうございます。

プロジェクトごとにチャプターが整理されている。12プロジェクト。興味があったので数えると、アンビルトが6件、実現されたものが6件。プロジェクごとに、磯崎新の自注、編集者の解題、複数の批評家の批評、が併記される。そしてそれらが全体として収斂してゆく結論というものもない。法廷パラダイムという説明であるが、判決の日取りも与えられていない。

それらは祝祭なのである。法廷であってもいいが、裁判がそのまま祭りとなる。ひとつのプロジェクト、ひとつの未決定の対象にむかって、多くの人々がさまざまな声をあげて、調和したり対立したりする。参加者たちはその高揚に飲み込まれる。高揚とははじまりはプロセスでしかないとおもわれていたが、やがて目的にすりかわってしまう。

ほとんどの人は、プロジェクトにたいして目的論的か、決定論的か、使命論的かである。磯崎新だけがさらに祝祭的でありうる。しかも彼は、ダンサーにしてプロデューサーである。

そして本書を読みながら、読者はこのバーチャルな祝祭にしだいに参加しはじめる。アンビルトは呪いのように脳に憑依しはじめる。その高揚のなかで、プロジェクトを妄想し、構想し、反芻しつづける。デミウルゴスはそのようにそそのかす。そのそそのかしのなかで、あらゆるものが飲み込まれ、錬金術的に第三の物質を生むような霊感があたえられる。

祝祭の高揚のなかでは、もはや批判などは野暮なものであろう。この人を見なければならない。