藤本壮介『地球の景色』を読んだ感想

藤本壮介さんから『地球の景色』をいただいた。ありがとうございます。ワクチン熱もおさまったので、読書感想文を書いてみる。
 この書は2015年から8年間GA Japan誌に連載されたエッセイをまとめたものらしい。世界出張記ともいえる。力をこめすぎない、リラックスした書きぶりのなかに直截な観察が書きつらねられている。読みやすい。リズムがいい。説教くさくない。
 建築家的な文章ではない。ボルヘスになんども言及している。たぶん文芸にも詳しいのであろう。文体が面白い。工学系である建築ではやや禁じ手となっている手法が頻出する。
 まず比喩が多い。wifiでつながれた飛行機はもはや休息の場ではなくメールを「卓球のように一心不乱に打ち返す競技場」(p.43)になってしまったは、にやりとさせられる。「もしかすると、都市というのは、とても大きな、かすかな、信仰なのかもしれない」(p.184)は聖なるものを論じたぼくとしては、まず同意して感銘をうける。「あたりまえの崇高さ」(p.185)もしかり。「世界はただひとつの原理でできているのではなく、むしろ無数の別々のかけがえのないものたちによって成り立っている」(p.185)は、多様性というのもひとつの原理主義だという保留をしたうえで、合意である。
 それから擬音が多いのもそうだ。ぺらっぺら(p.45)、すーっと(p.203)、ぐぐっと(p.75)、するすると流れてゆく(p.200)、すーっと伸びてゆく壁(p.203)、なども工学系らしからぬ。かといって読者を愚弄する反知性主義でもない。これでいえてしまえば文字数の経済につながる。身体をとおして感じたような気になり、さわやかに読めてしまう。
 そうやって前書きも、目次もないこの書を、たまさか開いた頁から読んでもいいのだが、最初から最後までするすると読ませてしまう。読者もパリ、ロサンゼルス、イスタンブール、インド・・・と世界旅行をゆるゆると(脱力して面白く)つきあってしまう。
 ぼくとの接点はなさそうだが一点あった。かつてGAJAPAN誌で藤森照信さんと対談し、モニュメントの意義を論じた。そのときぼくは、世界の構図のなかで、西洋的な実体論にたいして日本建築はみずからを虚としてとらえる立ち位置にあると指摘したら、藤森さんはこの虚実に対応しているのは、伊東豊雄藤本壮介における内外の反転であるときりかえしてきた。ただ時間がなくて詳論できなかった。藤本さんはこの内外の反転という課題についてp.233-236、p.252(アブダビ)などで論じている。もちろんぼくへの回答が準備されているのではない。ただ深読みするに、虚実という二元論こそ観念的構築なので、それから自由になってみることだというように読める。ただ日本建築問題として検討するのは要継続である。
 ゆらぎ。ハギアソフィアやサンヴィターレ教会などのビザンチン建築は藤本さんにとり重要建築のようだ。その空間的特質はスクリーン性、浸透性にあるという認識は20世紀初頭には確立されているので、その「向こうの向こうの向こう」(p.378)が感じられることは特段の指摘ではない。しかしそれが、安藤忠雄のコンクリートは「向こう側」感じさせる(p.285)などと現代建築にまで敷衍されると、新たな意味をもちはじめる。空間の輪郭がゆらいでいることを見ようとする。事実としてゆらいでいるとはかぎならい。ゆらぐものとして見ようとする意思である。
 無。それにちかいのが多くの箇所で語られる「無」である。無時間(p.109)、インドでは「全てが永遠の途中であり、それゆえ時間が意味を持たない」(p.220)、伊東豊雄の建築における「抜け」、空き(あき)(p.169)、空(くう)、チャンディガールには軸線の先に「何もないこと」(p.160)、だからル・コルビュジエの都市計画は「世界に開いている」(p.173)こと、「時空の廃墟」(p.514)などである。これももともとは東洋的な無なのかもしれないが、建築を設計する力となりうる概念である。
 混沌。読者としては著者が使わなかった言葉でサマリーしたい。藤本壮介がゆらぎや無をとおして見ようとしているのは「混沌」ではないか。ロサンジェルスにおける空気と粒子とが、空間と物質とが反転する刹那を見ようとすること。「白は単に白ではない」(p.275)、「触覚と視覚が溶け合う」(p.283)もそうである。あるいは必然性と偶然性の相互補完(p.356)。つまりカテゴリにしたがって分類され切り分けられそして構築される以前の世界、という意味での混沌である。この混沌はなにも数十億年前にあったそれではない。人が知性とやらでそのつど世界を解析し再構築する、その直前にあった混沌である。
 混沌にまで遡及することの現代的意味を追記してもよさそうだ。
 多様性は大切だ、しかし社会の分断、などといわれる。そのとおりだが、多様性はそもそも分類のカテゴリーを大前提としている。したがって世界の多様性を認めるためには、人間の知性の内部が多くのカテゴリーによりあらかじめ分断されていなければならない。だからマッチポンプとなってしまう。そうならないためにはカテゴリーにより分析される以前の状態を想像しなければならない。それは現状を無視することではない。現状を認識したうえで、カテゴリー以前の混沌をもうひとつの認識のレイヤとすることである。
 1990年代までモダン/反モダンの論争があったとはしらなかったが、モダンとはまずマニフェストしてそのように世界を構築するという極端な設計主義(計画主義?)であった。それはイデアを実現するというプラトニズムとも親和的であった。建築理論が重要になるのも基調としてのプラトニズムゆえであった。21世紀はそれとは違ったものになるというのがぼくの読みなのであるが、それと藤本さんの包容力にあるアプローチは近親性がある。
 建築の時間性、芸術的・歴史的価値はそのとおりである。しかしそれらの価値基準はすでに文化として制度として確立されたものなのだから、ほうっておけばたんなる保守主義となり、建築は創造的なものではなくなるであろう。
 そういう混沌を見ようとする、あるいは見えてしまう建築家である。混沌まで遡及して再出発するからこそ、設計は創造的なものとなる。たんなる反復や模倣とは違ったものとなりうるであろう。あるいは混沌を陰画とすれば、歴史として整理され尽くされたかにみえる建築史もまた、創造的に再解釈できるであろう。「古代からギリシアまでをひとつの同時代として」などと誇大妄想にふけった建築史家からみると、藤本さんはぼくに似た系統ではないかと思えてくる。ご迷惑かもしれないが。